土屋陽介『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』は、哲学対話教育の絶好の入門書だ。特に、道徳の「特別な教科」化の流れで哲学対話に興味を持ち、学校でも取り組んでみたいという方が最初に手にとるべき一冊だと思う。
哲学対話に関する情報がコンパクトにまとまった一冊
この本がお勧めポイントは、哲学対話に関する様々な情報がコンパクトにまとまっていること。哲学対話の紹介や日本や海外での歴史、哲学対話の理念、そこから派生した哲学カフェ、そして哲学対話を始めるための具体的なノウハウまで、一冊の新書で「これを読めば哲学対話について一通りわかる」ものになっている。特に、日本における哲学対話の広がりの歴史をまとめている第3章は資料的にも価値が高いし、「哲学対話と普通の対話の違い」について哲学している第4章は、読んでいて非常に面白い。この2つが同じ本に入っているところが、学校における哲学対話の実践者であり哲学者でもある、「学校駐在哲学者(フィロソファー・イン・レジデンス)」の土屋さんの面目躍如たるところ。
「学校駐在哲学者」としての立ち位置
個人的な興味で言うと、僕は土屋さんが「学校駐在哲学者(フィロソファー・イン・レジデンス)」として、開智学園という学校の仕組みの中で、学校の教諭として哲学対話をする挑戦を続けていることが、とても興味深いし、素晴らしいチャレンジだと思っている。
実は僕も、著者の土屋さんとの出会いで2011-12年頃に哲学対話に関心を持った。土屋さんをお招きして、放課後に前任校で哲学対話をしたこともある。その後も哲学対話には興味を持ち続けていたけど、自分のメインフィールドである作文教育に専念したいのと、「学校の授業の中で」「学校の教員が」哲学対話を行うことの難しさに突き当たって、僕は哲学対話をしていない。その難しさとは何か。
この本の中で土屋さんも書かれているが、「学校」とは基本的に、特定の秩序や出来合いの答えをを子どもに教えるところである。学校の主目的の一つが社会秩序の維持(次世代の育成)である以上仕方ないことだが、そこでは先生の期待する「答え」が存在する。個人的な好みがどうあれ、学校の教員はそういう役回りを必然的に担う。そういう人間が、学校制度の枠組みの中で「既存のあらゆる秩序や道徳をいったん白紙に戻して考える」哲学対話をするのは、どこかに無理が生じるのではないか。そのことの難しさで、なんとなく僕は哲学対話に手を出しかねてしまったのだ。
その問題に、土屋さんは「学校駐在哲学者(フィロソファー・イン・レジデンス)」として果敢に挑戦されている。この本でも、あまり目立たない形だけれど、哲学対話と学校空間が本質的に相容れない面が、各所に散りばめられている。それを承知の上で学校における哲学対話に挑戦している実践者の一人が土屋さんである。
僕がお会いした当時、土屋さんはまだ開智学園に所属する前だった。そして学校にふらっと時々やってくる人という立場で哲学対話をされていた。それが今は、哲学対話で博士論文をお書きになり、学校の中の「教員」という立場で哲学対話をし続ける困難に挑戦されている。敬服する。
学校を作りかえる、かもしれない
哲学対話のもっとも残念な消費のされ方は、流行としてもてはやされて捨てられ、ただの一時的な「学校秩序のガス抜き」になってしまうことだろう。そこで立ち止まってしまった僕と違って、土屋さんは、そういうリスクを承知で前に進み、実践・研究・啓蒙という側面から、現在のムーブメントを作り出してきた方である。一歩一歩しっかりと哲学対話の道を土屋さんが歩まれてきた成果が、この一冊にぎゅっと詰まっている。ここまで着実に仕事を積まれてきた土屋さんなら、いつか哲学対話で学校そのものを「探究の共同体」に作りかえるかもしれない。そんなことも思わせてくれる一冊。ぜひ手に取ってほしい。