渡辺貴裕『教師のためのリフレクションと対話』は、様々なシステムに抑圧されがちな「わたしの感覚」を肯定することを起点に、授業や研修の在り方を見直そうという、とても提案性に満ちた本だ。人間に対する信頼にあふれた本でもある。僕がこの本を手にとったのは、明日から受け持つ「初等国語科教育法」の授業の中で、対話型模擬授業検討会をやろうと考えていたからなのだが、小・中・高校で校内研修を担当する方、そして教員養成や教師教育に関わる立場の人、おすすめですよ。いま読んでおくと「研修」に対する考え方が、かなり柔軟になって、これからの校内研について考えられると思います。
「人間の感覚」から出発する熟達論
本書は、副題の「やってみての気づき」という言葉に象徴されるように、一つの授業の検討から校内研究、そして日誌まで、「まずはやってみて、自分の感覚で感じたことから気づきを引き出す」姿勢が一貫している。そしてその底流の主張は、ちょっと大げさに言えば、「人間の感覚の肯定」だ。「あなたが感じたその感じ方から、授業改善の道を出発してみようよ」という誘いでもある。そうすることで、参加者同士の創発的な学びを引き出すのだ。
しかし、その誘いの奥には、筆者の「怒り」の感情が垣間見える。PDCAサイクルとか、仮説ー検証スタイルとか、既存の事業検討会や研究とか、様々なシステムによって教師個人に本来備わっている感覚が抑圧され、システムに無自覚に従わされ、その仕組みのなかで、授業のもつ豊かさが隠されてしまったり、参加者が本人も望まないような自己防御的な発言をしてしまう(させられてしまう)ことに対する怒り。人間がほんらい持っている力への信頼と、それが既存のシステムによって毀損されていることへの怒りが、本書には伏流水のように流れている。文体は柔らかだし、具体例も豊富で平易だけれど、本書には(「おわりに」の言葉を使えば)「強い憤り」や「異議申し立て」の口調が、間欠泉のように噴き出てくるのだ。例えば授業の検討会への、
どういうわけか、多くの学生や教師は、評価や助言を行わなければ授業をよりよくすることにならない、検討会ではそうした指導や助言をこそ言ってあげるべきものだ、という考えに取り憑かれているようです。(p63)
また、教員同士の校内研修での授業公開における相互評価のチェックリストに関する、
これは、既定の項目ができているか/できていないかの観点から授業を眺めるよう仕向けるものであり、授業で実際に起きた(時には想定外の)出来事を手がかりに省察を深めていくような授業の見方を妨げるものです(p102)
さらには、外部講師を招いての研究会についての、
学校側が、体裁を整えるために予備、講師が提供してくれる内容には本気では期待しない。講師側も、それを薄々感じながら、自分が話したい話をして帰ってくるだけ。こうした一種の共犯関係のもとでは、双方ともに学びが生じません。(p210)
などの表現に、怒りが噴き出ているのが面白い。本書とセットで読むべきだろう藤原由香里さんとの『なってみる学び』では、「これは藤原さん自身にとっても宝物の本なのだろうな」と感じさせる藤原さんの語りが前面に出て、読んでいてストレートに励まされたものだが、本書『教師のためのリフレクションと対話』のほうは、渡辺さんらしい、理知的で穏やかなのだけれど、芯に熱があるこういう語りが魅力的である。
特に最後に引用した「外部講師のかかわり」のパート(p209)は、自らも外部講師として関わることの多い著者の渡辺さんが、学校に対する自分の権威的な立場・構造も時に自覚的に利用しつつ、権威的な校内研修システムをほぐそうと努力してきたあとがうかがえて、興味深い。
「自分の感覚」から出発することの意味
ここからは、自分がこの本から得たものを書こう。まず本書を読んで、なぜ対話型模擬授業検討会ではあくまで自分の感じたことから出発するのか、その根拠がはっきりと理解できたと思う。理屈で言えば、「評価や助言はしない」ルールのもとでも、「自分の感じたこと」から出発しない方法もあるのだ。たとえば、「子ども理解」を前面に出して、「参加者のAさんはこういう学力と性格の男の子の役、Bさんは最近はこんな状況の女子の役…」というふうに、役割を定めたロールプレイをすることもできる。
しかし、対話型模擬授業検討会ではそれは一切しない。対話型模擬授業検討会に必要なのは、「役割演技」ではない。役割を設定した途端、自分の感覚は殺され、頭の中だけで(すなわちあくまで自分の理解を逸脱しない、コントロール可能な範囲だけで)組み立てられた架空の子供像を、理屈で操作し、その子が感じるであろう「感情」を理屈で作り出してしまう。それはすぐに「こういう子にはこう対処すべき」という規制の「べき論」と結びつくので、話者の内面には何も変化がおきないし、参加者同士での協働的な省察も深まりにくいのだ。だからこそ、そうではなく、自分の感覚を解放し、そこを起点にして、一緒に出来事を見つめ直すことが大事なのである。
「自分の感覚とは違うあの子」にどう接近するのか?
このように自分の感覚から出発して授業を見つめ直すことから協働的に熟達の道を進んでいくのはとても素敵だなと思いつつ、本書をふまえてさらに考えてみたいこともあった。「自分の感覚とは違う感覚を持つ、あの子の世界の見え方」にどうやって授業者は接近していくのだろうということだ。当たり前の話だが、自分と完全に同じ感覚の人間などいない。教室の中にも、時には自分には到底受け入れられない感覚を持つ子もいる。それは、「学び手としての自分の感覚の延長」にはいない存在だ。本書は教師が身を以て「子どもが見る世界を見る」(p188)ことの大事さを伝えてくれているが、その「子ども」は多様であり、自分の感覚や周囲の同僚の感覚とはまるで違う子もなかにはまざっている。その子からの世界の見え方には、教師はどう共感的に接近できるのだろうか?
これは自分にはちょっとまだよくわからない。紋切り型の回答を書けば、そういう子に出会った時の経験値を蓄積していくことで、なんとなくパターン化してその子の世界を「理解」してしまうのだと思うが、それでいいのだろうか。考えてみるとそもそも自分は、感情が邪魔をして「自分の感覚とは違うあの子」に共感的になれないことがけっこうある。青山新吾先生の言う「やさしいどうして?」の視線を向けられないというか….。そのあたりのことは、下記エントリの「根がインクルーシブじゃない」あたりの話で詳しく書いたのだけど、自分の感情から出発することと同様に、自分の感情をいったん脇におくことを学ぶ必要が、少なくとも自分にはあるようだ。それはどうしたら良いのだろうか。
自分の関心との共通点と相違点
ちょっと話が脱線してしまった。脱線気味にもう一つ個人的に面白かったことを書くと、本書の議論と、これから僕が研究したい「書き手としての教師」(teachers as writers) の重なっているところとそうでないところがあったのも発見だった。「教師が自分で書く」とは、本書で言われている「やってみての気づき」を授業に生かすことそのものである。だから、「書き手としての教師」をめぐる議論は、渡辺さんの視点から言えば、本書で扱う「まず教師がやって、その時の自分の感情の動きから考える」バリエーションの一つであるとも言える。自分は正直、教師教育にはさほど興味がないと思っていたし、大学に移るのにそんなんでいいのかとも思っていたので、こういう接点を見つけられたのは個人的に嬉しかったポイント。
同時に、渡辺さんは最後の章で「書くことを通した振り返り」に焦点を当てているが、僕個人は「教師が書く」ことがいつも「振り返り」の文脈でのみ語られがちなことに対して、もったいない気持ちがある。ここはまだ自分もクリアに語れないのだけれど、授業や振り返りに直接役立たなくったって書いていいじゃない、と思っているのだ。正確には「役立たないと書いちゃいけないってわけ?」みたいな感覚に近くて、こう書くとただの言いがかりのようなんだけど…。
とまあ、渡辺さんの専門とする教師教育と、僕の関心領域である「書くこと」の重なりを自覚できたのも、個人的には面白い読書体験だった。
本書から少し離れてしまった後半の話はともかく、自分も4月から対話型模擬授業検討会に挑戦してみるので、近隣で同じ関心のある方、よければつながってやってください。どうぞよろしくお願いします。


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