やっぱりトレードオフなの?自由度の高さと、力をつけることの関係。

実は1月は3つの授業見学の予定があります。今日のエントリはその1つ目の授業について。ある市立小学校2年生の「作家の時間」。「作家の時間」を長年やるなかで、やり方を変えてきた先生の授業です。自由度の高さと力をつけることの関係について再考する良い機会でした。[ad#ad_inside]

「作家の時間」のやり方を変えた先生

このクラスの担任の先生(T先生)は、僕も旧知の仲で、だいぶ前から作家の時間の実践をしている「ベテラン」と言ってもいい先生。ただちょっと面白いのはその実践の変遷。彼は、最初はラルフ・フレッチャーの『ライティング・ワークショップ』のように「書きたいことを書きたいように書く」子供の自由度が高い実践をしていました。しかし、今ではそのやり方を改め、かなり構成的な「作家の時間」にしているのだそう。どうしてそんな変化を辿ったのでしょうか。

T先生の授業のモデルは、ナンシー・アトウェル『イン・ザ・ミドル』のジャンル学習。アトウェルは、それぞれのジャンルの書き方を学ぶ「ジャンル学習」において、一貫してモデルとなる文章を示し、皆でその特徴を分析し、その分析に基づいて自分で書くやり方をとっています。モデルから共通するパターンを見つけ出す、いわば「パターン学習」をしているわけです。

具体的に言えば、最初は教科書の文を読み、モデルになる箇所をみんなで書き写し、そしてそこに見られるパターンを使って書くことを繰り返しているのだそうです。通常の、自由度の高さが売りの「作家の時間」に比べると、だいぶ制約が強いことになります。ちなみに、T先生の教室の廊下には、そのようなモデルのパターンを使った「おすすめ本」紹介が掲示されていました。

もっとも、一年間を通してパターン学習だけを繰り返しているわけではありません。一年間の中で、徐々に制約を緩め、自由度を上げているようで、実際、僕が見学したこの日は子供たちが自由に物語を書く回になっていました。長期的視点の中で、自由度を変化させているわけです。

パターンが身についている子どもたち

この日の授業見学を通しても、子供たちの中にこれまでのパターン学習の蓄積があることが見て取れました。例えば、ある子は、いろいろな野菜と仲良くなった主人公がみんなからはぐれてしまう場面を山場に持ってきていました。また他の子の作品では森の森を探検していた主人公が熊に食べられてしまう場面がありました。どちらの子の作品にも、「何か事件が起きる」ことが物語らしいパターンとして表れていたいたわけです。

また、モデル文を参考に書く子が多いのも特徴的でした。三藤恭弘『書く力がぐんぐん身につく!物語の創作/お話作りのカリキュラム30』がテキストとして用意されており、そこにあるモデル文を見て、それを少しずつ変えながら作品を書いている子も何人かいました。中にはそのまま書き写している子もいます。小学2年生にとっていきなりお話を書くのは難しいので、視写の選択肢があるのがいいですよね。いずれにせよ、この教室ではT先生の指導がしっかり入っている様子です。

とはいえこの場面、僕は「視写が認められるのいいなあ」と見ていたのですが、実はT先生としては「自分の足場かけ不足で視写になってしまった。きちんとサポートすればもっと良い時間を過ごせたのではないか」と考えていたのだそうです。T先生が実に丁寧に子供たちへの足場掛けについて考えていることに驚きました。

自由度を高めることと、力をつけること

T先生との話で話題になったのが、自由度を高めることと、力をつけることのトレードオフ関係です。一般に自由度を高めれば高めるほど子供のモチベーションは高まりやすい一方で、教える側が焦点を絞る事は難しくなり、特定の力をつけることも難しくなります(ここでの「力」とは、国語の教科学力的な力を指します)。最初は自由度の高いライティング・ワークショップをしていたT先生が、今ではパターン学習により教える焦点を絞っているのも、きっと「力をつける」ことにシフトしたからなのでしょう。実際、楽しいだけで、そこに力がつく手応えがなければ、「作家の時間」もすぐにだらけてしまう。T先生は、力がつく、積み重なる実感を選んだのでしょう。「自由にやる伸びやかさもあるけれど…」と前置きした上で、「手ごたえが違う」とおっしゃっていたのが印象的でした。

そういえば、風越のりんちゃん(甲斐利恵子さん)も、先日の教科会で最近のご自身の実践を振り返って、子供たちに様々なアウトプットの形式を認めたが、結果的にそれはあまり良くなかったのではないかと振り返っていました。子供たちは選べて良かったかもしれないけど、やはりアウトプットの形を(例えば「随筆」のように)指定して、みんなで同じ経験をしたうえで他の子の作品を見ることに意味があったのではないかと考えていました。

りんちゃんにせよ、僕にせよ、国語と言う教科の中で物事を見ている人間にとっては、やはり教科学力の質を高めたくなってしまうもの(たとえば小学校の先生の中には、ここが全くピンとこない人もいるかもしれません)。とすると、どうしても自由度の高さと質の高さの関係は気になります。これは一見トレードオフの関係に思えるし、実際そうだろうとも思うけど、でも本当にそうなのか。そして、もしそうだとしたら、自分の授業では質を高められるだけの制約をちゃんとかけられているんだろうか。風越に来てからここ数年の僕は「楽しくないと力はつかない」とばかりに自由度を高めて、「質の高い作品を子どもたちに書かせる」ことにあまりこだわらないようになってきていたのですが、それで「手応え」は十分に得られているのか、ちゃんと力をつけさせているのか。ちょっとドキッとする視点をもらえる授業見学でした。ありがとうございました。[ad#ad_inside]

 

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