いただいたコメントに学ぶ、「振り返り」を「かったるいアレ」にしない工夫とは?

上の写真は夕食後に図書館に向かう途中のエクセター大学キャンパス内の風景。今は夜8時くらいでもこんな明るさで、夜10時近くに薄暗くなります。知識としては知ってても、いざ体験すると新鮮!

以前にこのブログで「学校での振り返りがなぜかったるい儀式になりがちなのか」という趣旨の記事を書いたところ(関連記事参照)、コメント欄やfacebookなどで多くの方からコメントをいただいた。僕に直接、ではなくても、このエントリがシェアされた先でコメントを書いて下さった方もいた。

「振り返り」はなぜ「かったるいアレ」になるのか

2016.05.05

やや時間が経ってしまったが、せっかくなのでそれをいくらか整理して自分の参考にさせてもらおうと思う。コメントを下さった方、ありがとうございました。

いただいた意見をきちんと集計したわけではなく、「印象に残った観点」を軸に書き出したに過ぎないので、こうした作業が結局は「自分の好みの補強」になっている危険性もあるな、と思う。

目次

振り返りを書く前に交流活動を入れる

いただいた中で一番多かったのは、深いリフレクションには生徒同士の交流が鍵になるのでは、という意見だった。こうした意見には、「生徒同士のコミュニケーションを促進する」(生徒同士の人間関係を円滑化する)という意味と、「人に自分の振り返りを読んでもらうことで勉強になる」(リフレクションになる)という二つの観点が含まれていたと思う。以下は、後者の観点からのある方のコメント(再掲許可取得済み)。

有益なふりかえりが生まれるのは、他者&他者の成果物との交流後だと感じます。自身の活動をふりかえることはなかなか難しい場合が多いのですが、自身の書いたものを他者のものと交流し比較検討したり、コメントをもらったりする中で、自然と自分と他者の違い(良い点もまだ不足している点も)が明らかになり、気づきも生まれてくることから、少しは「やらされ感」も軽減するのではないかと、考えています。具体的にはクラス内でのノート回覧や、他クラス・他校生・卒業生などの書いたものの提示後は、自身の書いたものとの比較がしやすく、ふりかえりの質や量が上がる実感があります。(ゴシックは引用者)

経験に裏打ちされた具体的なコメントが大変ありがたい。リフレクションのモデルにも、このように「他者の視点」を組み込んでいるものは少なくない(一例として関連記事を参照)。学校の教室でやる場合の課題は、どうやってお互いがお互いの「信頼出来る他者」になるかという点だろうけど、これこそ活動を通じてやっていくしかないのだろう。

対話を軸にしたリフレクションのモデル

2016.04.08

「教師–生徒」の関係性をずらす工夫をする

これは上記の交流活動でも狙われていることだろうけど、「ある生徒の疑問に別の生徒が答える」「後輩に向けてアドバイスを送る」「自分でQ&A集を作ってみる」など、「教師向けのコメント」になるのを防ぐために生徒の活動目的を別に設定しているというコメントも多数いただいた。直接リフレクションを求めるのではなく、授業内容のアウトプットを教師以外の読者を想定して行わせることで、教師の視線を意識しない形でリフレクションが促せられたら、ということなのだと思う。

50分という時間の枠組みの意識を見直してみる

他になるほどなと思ったのは「50分授業の最後の5分程度で書くから、かったるいおきまりの儀式になるのであって、その枠組みを変えることを考えるべき」という趣旨のコメントだった。例えば、「毎回の振り返りではなく単元ごとに一度」のように頻度を減らすこと、「授業の記録は忘れないうちに5分で書いてもらい、あとは宿題にする」などして「記録」と「内省」のフェーズを明確に区別することなどの意見がそれに当たると思う。中には、「振り返りが5分では足りないので、授業時間自体を長くする(時間割を組み替える)」ことに挑戦されている方もいらっしゃったり、こういう観点から学校内外での振り返りを促進する場として教育用SNSの持つ可能性に着目されている方もいて、ふむふむという感じ。

ただ、これらのアプローチは逆に「宿題ばかりになって(授業と授業外の境目が曖昧になって)かったるい」になる可能性もあるので、その点は考えないといけないし、やってみて生徒の様子を見ながら、ということになるのだと思う。教師をやっているとつい宿題を出したくなるのだが、僕は生徒だった時に宿題は嫌いだったのであまり宿題を出すのは気が進まないし、「生徒の自由時間をどこまで学校が侵していいのか」「それが許されるのはどういう場合なのか」という点も多少は気になるのだ。

そもそも学校の「振り返り」に期待しすぎ?

他にあったのは、現状の僕の大福帳の使い方と同じ姿勢というか、「学校で書かせるリフレクション(書かせるリフレクションという言い方が学校らしい)に、生徒の考えの深まりをそこまで要求しない、教師側の情報収集になって授業改善に役立てられれば十分」というものだ。これも、現実的といえば現実的な路線である。目的をどこに設定するか、なのだろう。

「リフレクションをするのは良いことだ」と「だから授業でも振り返りを書かせよう」のあいだ

個人的な話だけど、僕は特に自分が小学生の頃に、先生の視線を意識して振舞っていたことへの後悔や嫌悪感があるので、今の自分が生徒にそうふるまわせてしまうことへの恐れが強いのだと思う(まあ、生徒はそんなに意識していないのかもしれなくて、要は子どもの頃も今も自意識過剰なのである)。そのせいか、「リフレクションをすることは大切だ」は認めていても、「だから学校の授業で振り返りを書かせるのは良いことだ」に、なんとなくすぐに飛びつけない気持ちがある。

その「あいだ」になにがあって、どんな条件の時に「リフレクションをすることは大切だ」から、「だから授業でも振り返りを書かせよう」が言えるのだろうか。それに、リフレクションというとどうしても「書くこと」が中心になりがちなのだけど、本当は人それぞれに適した色々な方法があるはずだし、振り返ったことを人に伝えない自由もあるはずなのに。それを認めないのだとしたら、結局、「本人のため」ではない、何か別の目的の活動になっているのではないだろうか。こういう点も気になっている。

ただ、いつまでも逡巡していたら何もチャレンジできないのも事実。そういうマイナス点もひっくるめて、帰国したら色々と体験してみよう。

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