しばらく前に、武田緑さんが書かれた「その主体性、非認知能力は誰のため?道具として子どもが消費される未来にNO」という記事がfacebookなどでシェアされてきた。そして、かなり多くの知人がポジティブな感じでシェアしていたことに、実は個人的にけっこう違和感を抱いていた。最初は武田さんの記事自体よりそれをシェアしている人たちのコメントに対しての違和感だったのだけど、よく読むと、やはり武田さんの記事にも自分は違和感を抱いているんだなと思ったので、ここでメモしておこうと思う。
「主体性」っていいものなの?
この記事で武田さんが書いているのは、「学校の教師に都合よくふるまうことを「主体性」と呼ぶな」ということや、「非認知能力を評価しようとしたり、意図的に育てようとしたりするな」ということである。で、実はそれについては全く賛成であって、違和感はない。にもかかわらず、この記事全体を通して何かしっくりこない感じをいだいていた。その「しっくりこない感じ」が、この記事を好意的にシェアする知人が多数いたことでますます増幅されたのだけど、結局のところ、僕は何に違和感を抱いていたのだろう。そう思いながらこれを書いている。
考えてみると、一つには、武田さんのいう「主体性」がちょっと狭い気がしたのだ。武田さんは主体性を「その人の内から湧き出る欲求に基づき、(意識的であれ無意識であれ)自己選択・自己決定し、他者や環境との関わりの中で表現・行為すること。そしてその責任を自分のものとして引き受けること」と、ほぼ内発的動機づけと同じようなものと定義して、その上で、(明記はしていないが)主体性を良いもののように扱っている。しかし僕が思うに、「内から湧き出る欲求」それ自体は善でも悪でもない。というか、『暴力の人類史』などを読めばわかるように、内から湧き出る欲求のままに家族親族を殺したり金品を強奪したりする人間が、かつては相当多数いて、「人権」という概念の広まりとともに、そういう欲求が抑圧されて、昔よりはるかに人が死なない現代の社会ができてきた経緯がある。もしも武田さんの定義のとおりのものを「主体性」と呼ぶのだとしたら、「主体性」とは多くの場合、動物的と言っていい欲望であり、そんなにたいして良いものではないのではないか…というのが、感じた違和感のひとつである。
「能力主義か民主主義か」という二項対立
もう一つの違和感は、この文章の後半で、武田さんが「底流にある思想」として設定する「能力主義か民主主義・人権か」という二項対立が、誤った二項対立のように思えた点だ。ここでの能力主義の定義はさだかではないのだけど、まあざっくり「◯◯ができる」ことを重視する考え方という程度に捉えた場合、能力と民主主義は、どう考えても対立概念ではない。というか、そもそも、民主主義的社会とは、構成員に一定程度の能力があることを前提として成り立つ社会なのではないだろうか。例えば、国民全員が選挙に参加できる程度の一定のリテラシー能力がない社会で民主主義が成り立つとは、ちょっと考えにくい。他者の立場を知的に想像できない人たちの間に対話が成り立たないのと同様である。それに、「人権」という考えかただって、人間が生まれ持っていたり、自然に身についたりするものではない。「人権」と「思いやり」や「やさしさ」の違いはしばしば指摘されることだけれど、それは学習しないと身につかない概念なのだから、そこにも能力が関わってくる。そもそも人類全体としても、殺戮のとほうもない積み重ねのはてに、ようやく「人権」という概念を学習してきたのだから。
そして、教育は、少なくとも公教育(私立学校を含めた、税金が投下された教育という意味での公教育)は、やはり「能力」を育てることと無縁ではいられない。どころか、それは教育の一丁目一番地である(「人格の完成」とはまさに能力の育成をめざしたキャッチフレーズだ)。もちろん時代によって「皇国民」だったり「民主主義社会の担い手」だったり、求められる能力の中身は変化するにせよ、国家が税金を教育に投下しているのは、一定の能力を持った国民を育てて社会を維持・発展させるためだという、身も蓋もないそもそも論を忘れてはいけない。そして、その目的のためには、武田さんのいうところの子どもの「主体性」(=内発的な欲望)を全て認めるわけにはいかないのである。市民としての能力を育てるために子どもの「主体性」を一定程度制限する場所。それが学校という場である。好むと好まざるとに関わらず、学校教育の枠内で働く人間は、自分がそういう社会的機能を持つ場における「権力の尖兵」だという自覚を持つべきだろう。
念のため書いておくと、僕自身はこれまで筑駒→風越と、いずれも自由な校風の学校で勤務している。僕自身の感覚やふるまいも、世間の公立学校の平均的感覚よりは「子どもの主体性を尊重している」と言われて不思議ないと思う。ただ、それは「主体性を制限するラインが平均よりも低い」だけの話であり、「能力育成のために主体性を抑圧している」構図自体は変わらない。そして僕は自分が権力者である自覚を持って、より意地悪く言えば国家権力の手先にすぎない自覚を持って自分の仕事を行なっている。僕の読書家の時間でだって、子どもは本当の意味で好きな場所で本を読めるわけではないし、作家の時間でも、本当の意味で「書かない権利」を持てているわけではないのだ。能力育成のために、それらは、ゆるくではあっても抑圧されている。
学校は「主体性」を制限する場所
学校とは、能力育成のために主体性を制限する場所である。である以上、そこで可能な議論は、「能力か民主主義か」ではない。「民主主義社会の担い手としての能力を育てるために、学校では、どの程度の子どもの主体性の制限や発揮の仕方が認められるのか」ではないだろうか。もちろん、現状のその線引きのラインが現状あまりに行きすぎていると思えるからこそ(この点は僕も同意する)、それを是正するために、「能力主義」への偏りを批判する姿勢はわかる。そして、批判するためのロジックとして、わかりやすい二項対立を設定したほうが批判しやすいこともわかる。それでもなお、「能力よりも民主主義を」という主張は、自分には受け入れ難い。能力を育てることを捨てたら、学校も、民主主義も、おそらくは成立しなくなるのだから。こう書くとなんだか当たり前すぎることなのだけど、今思えば、「武田さんの記事をシェアしている学校の先生たち、その当たり前すぎることを見落としてない?」あたりが、僕の感じた違和感の原点だったのだろうと思う。
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