[読書]評論を読む楽しさへ誘う一冊。小池陽慈『”深読み”の技法』

小池陽慈さんの『”深読み”の技法』を読んだ。著者は河合塾の現代文講師で、前著の『14歳からの文章術』は「読書=書くことの土台!」(p286)という言葉で締めくくられていたのを覚えていた。書くことの土台となる読む技法とはどんなものか。前著から継続した興味で読んだ。

語彙大事、知識大事…第1部は王道の「読む技法」

本書は第1部と第2部で分かれている。「読むための方法」を扱った第1部は「語彙大事・知識大事・述語を核にして文意を捉えるの大事・要約大事」を強調する、地味だが王道といえるものだ。受験参考書などでよく扱われる読解スキルは巻末資料(p294-297)にまとめて、語彙や背景知識の重要性を訴えているのがいさぎよい。そもそも、類似や対比、具体例と抽象といった読み方をいくら知ったところで、そもそも語の意味がわからなければその文章の意味はわからないのだから、当然のことだと僕も思う。実際、評論文だって、読めば読むほど背景知識がスキーマを作って読みやすくなる。本書では、語彙や背景知識があると対象の文章をより大きな文脈の中で読めるようになるという実例が、複数示されている。

ただ、語彙・背景知識の重要性や、述語を中心に文の構造を掴むこと、さらに要約することの重要性を強調しているにもかかわらず、その力を伸ばすための実践練習は、この本にはそんなに掲載されていない。筆者としては別の本(おそらく下記の本?)を読んでほしい、ということかもしれない。

僕は上記の本は読んでいないので、要約の仕方やそのために必要な接続詞の理解としては、野矢茂樹さんの『大人のための国語ゼミ』、読書ノートのとり方としては、高田明典さんの『難解な本を読む技術』などが思い当たる。

第2部は世界の見方を広げるブックガイド

第2部は、文章を読む意味について取り扱った章だ。翻訳論、脱構築批評、記号論、国民国家論などを紹介しつつ、文章を読むことを通して新しい世界の見方を提示していく。そもそも現代文の授業は、良くも悪くも、文章読解を通したプチ教養講座的な性格を持つものだが、きっと著者の授業でも、こういう知的なトピックが取り上げられているのだろう。知的好奇心と学力のある高校生には、こういう背伸びした話にくらいついて、そこから新書や選書に手を伸ばす子たちが一定層いるのだ。そんな受講生とのやりとりが目に浮かんでくる章だった。僕が高校で教えていた頃も、そういう子たちには内田樹『寝ながら学べる構造主義』、廣野由美子『批評理論入門』、今村仁司『近代性の構造』などを紹介していた(←いずれも、今となってはもう古い感は否めないですね…今は何が良いんだろう?)。小池さんのこの本も、そういうラインナップに続く教養入門的な一冊として高校生に手渡すことができるし、何より、この本にとどまらず、さらに世界を広げるためのブックガイドになっているのがとても良い(これは、第一部でも同様だ)。そして、「”深読み”の先にあるのは、その文章への応答としての書くという行為であるはず」(p291)という言葉で、ふたたび書くことにつなげている。精読の技法から多読をさそうブックガイドへ、そして表現へ、という全体構成になっている。

評論を読む楽しさを伝える一冊

著者の小池さん(1975年生まれ)は、僕とほぼ同世代ということもあり、大学入学以降に読んできた本にも共通するところが多いのだろう。そういう意味で、自分の高校現代文教師時代を思い出させる懐かしい一冊でもあった。

個人的な話になるが、高校で現代文を教えていたとき、どうしても授業が「素人によるプチ教養講座」的になってしまい、どっしりした専門性もないのに教養世界の案内人を装う不誠実さに、「現代文教員の専門性ってなんだろう」と悩むことは多かった(もともとの僕の研究対象は、詩人・野口米次郎だった)。でも一方で、現代文で取り扱う話題を通して、知的好奇心のある生徒たちが人文・社会科学系のトピックに興味を持ち、授業で紹介した本の読書に目覚めていく姿もたしかにあって、それが授業者の喜びでもあった。お昼休みを使って高2の生徒たちとロールズの『正義論』の読書会をしたりして、生徒も、まだ若かった僕も、精一杯背伸びを楽しんでいたのだ。

そんな「背伸び」によって獲得した新たな知を通して世界を見直すときに、それまで見慣れていた景色が確かに少し変わることがある。一つの評論文の背後にある人類が積み重ねてきた知の蓄積が、自分の日常の景色を少し変えてしまう。世界と自分がつながり、変容する。それが「評論」というジャンルの文章を読む楽しさだろう。本書の一番の価値は、深読みの技法を教えるていをとりながら、評論の頻出トピックが持つものの見方の紹介や本の紹介を通して、評論を読む楽しさを読者に気づかせ、本の世界に案内しているところにあるのだ、と思う。「世界と自分に近づくための14章」という副題には、評論というジャンルが持つ可能性が、端的に暗示されている。

この筆者の狙いが届くのは、もし読者が高校生だった場合は、一部の高い学力の子に限られるかもしれない。でも、大人になってからそれに気づいたって、全然遅くはない。評論には、大学受験に関係なく、何歳から出会ったっていいのだから。評論との出会いは、自分のものの見方が更新される快感と、今の社会についてより広い視野で考えられる実利の、両方をもたらしてくれるはずである。

実のところ、小学校で国語を教える今の自分は、この本にあるような精読につながる教え方は、今はほとんどしていない。要約とか、自分でもとても大事だと思っているのに、その訓練はしていない。今は、内容理解が不十分であろうが、とにかく多読重視で読書を好きになってもらう(そうでなくとも抵抗感をなくす)ことに主眼をおいている。その構えなしにいくら読む技術を教えたところで、学校の国語の授業や受験が終わったら読まなくなってしまうから。とはいえ、今の多読重視のスタイルから精読重視の高校の現代文にどうつなげるのといいのだろうか。立場を変えた今の僕としては、そのことを考え続けたい。

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