「良い本、良い問い、良いテーマ」という罠

先日の質問づくりミーティングでの「良い問いを作らせたい」という実践者の方の声に接して、あらためて我が身を振り返ったことがあったので、それについて補足的に書いてみたい。生徒に自分で何かを選択して活動してもらう時の「良い問いを作らせたい」「良いテーマで探究活動をさせたい」「良い本を読ませたい」という教師側の欲望についてだ。

勉強になりました!質問づくりミーティング

2017.08.05

「良い○○」は存在する

まず、こういう「良い○○」というものが存在するかどうかで言うと、僕は少なくともある程度は存在すると思う。ある共同体の中で「良い」とされる本、面白い、探究する価値のあるテーマ。全ての個別の事例に白黒はつけられないし、「その人にとってどうか」はわからないけれど、傾向として「良し悪しの違い」は確実に存在する。たとえば良書と言われるものがそれだし、探究する価値のある問いについては、下記エントリで紹介した本でも「良い問い」づくりについて触れられている。

問いをどう見つける? 探究型学習の「問いづくり」に役立つ本

2016.10.01

教師の介入がもたらす問題

しかし一方、教育という文脈で、そのような「良い○○をさせたい」という教師側の欲望があらわになると、生徒が選んだ問い/テーマ/本が、教師の望むそれではなかった場合に、様々な形で介入して「矯正」することになる。この介入には、カンファランスのような相談から、「テーマ候補の指定」のようなものまで、濃淡に応じて様々な形があるが、こうした介入を良しとするか、あるいはどの程度の介入までなら良しとするかは、なかなか難しい問題だ

多くの場合、教師は何らかの手だてで介入して、「良い本、良い問い、良いテーマ」に出合わそうとする。せっかく生徒の活動をするのだから、充実した活動をしてほしい、質の高い活動をして欲しいという願いゆえだ。

しかし、この願いが罠である。というのも、「良質の問い/テーマ/本etc」に出会って質の高い活動をしてほしいという願いが前面に出すぎると、自主的な活動と言いつつ介入することの矛盾が前面に出て、結局、生徒にとって「お仕着せ」の活動になってしまうからだ。また、良いテーマをこちらが与えてしまうと、結局その生徒が自分の力で良いテーマに出合う経験や、そのための試行錯誤の経験値は蓄積されないという問題もある。さらに、例えば一般的には「良い」とされている本でも、その子の固有の文脈においては「良く」はないことも、よくあることだ

一年間待った質問づくりの授業例

例えば、先日の質問づくりミーティングで報告されていたアメリカの事例では、質問の質についての教師からの評価は一切せず、生徒がたくさん質を作り、振り返りをすることで、やがて量が質の高さを生み出すことが意図されていた。

勉強になりました!質問づくりミーティング

2017.08.05

僕としては、なるほどと思いつつも、「一切評価しないで一年間待つ」ということへ驚きを禁じ得ない。なかなかここまで長い目で見通しを持つことは難しい。勇気がいる。失敗したら…という意識もあって、どうしても「その時間を無駄にさせたくない」と思ってしまう。徹底さに欠けてしまう。

待つことの難しさ

待つこと、見守ることが大切。これは教育ではよく聞く言葉だが、これほど実践が難しい言葉も少ないな、と思う。つい助けたくなるし、つい指示をしたくなる。面白いことに、自分の子どものように思い入れが強くなると、一層その傾向が強くなる。では逆に、ただ待てば本当に良いのかといえば、おそらくそうではないケースもたくさんありそうだから、なおさらのことだ。

でも、すぐに「良い本、良い問い、良いテーマ」を与えようとすることは、一種の罠なのだ。「待つこと」を徹底できる自信もないけれど、そのことだけは気にかけておこう。

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3 件のコメント

  • いろいろ考えさせられます。
    研究推進や研究授業でなければ、「1年気長に待つ」ことも不可能ではないと思います。「気長」に待ちつつ、生徒の学びに向かう姿勢を観察、支援し続けるでしょう。
    研究授業だと、指導主事も参観の先生方も「単元目標」「それに向かうための教師の手立て」を検討します。(まな板の上の鯉です。切られます。)
    極端にいうと、授業では、「話す聞く」「書く」「読む」の何かができるようにならないといけなくて、その「何か」は指導要領に書かれているのです。もっと広く解釈できないものでしょうか。
    新指導要領だと「学びに向かう姿勢」ということで「自分の力で問い続けること」が大事になってくるように思います。もう少しで時代が追いつくのでしょうか。
    まとまりませんが、感想まで。

  • どうするのがいいのかとよく考えておられて、立派な先生だなあ~と思いました。生徒さんがこのブログを読むと、こんなことまで考えて授業してくれているんだなと思うのでは。
    私自身は教師時代そこまで考えてやっていたとは思えません。その時々の条件の中、これでいいかなと思う程度でやっていたと思います。たぶん、「一番いい方法」というものにもそれほど実感が持てず、関心もなかった気がします。とにかく、やりたいようにやる、できることをやるという感じ。やり方も毎年変わっていったし、以前とは逆のことなども意識してやってみたりもしていました。また、(学校にはいろんな教師がおり)ひとりで教育しているわけではないという安心感もあったかも知れません。
    教育に対する効果や期待感みたいなものもわりと低めだったように思います。そこにはたぶん、自分自身が受けてきた教育の影響もあるでしょうね。授業に対する期待や願望がほとんどなかった気がします。基本的に学習は自分でするものと思ってました。

    • >(学校にはいろんな教師がおり)ひとりで教育しているわけではないという安心感

      こういう視点は大事ですね。これは自分でも持っておいて良い考え方だと思いました。つい忘れがちになります…