「作家の時間」のユニット2ももう7回目。全10回だから、もう終盤が近づいている。アイディアを練る段階は終わり、実際の執筆活動に入っている子が多くなり、ぼくもカンファランス(個別のやりとり)に忙しい。授業時間だけでは足りないので、放課後に希望者が出したノートや原稿用紙にもコメントしている。そんな日々のなかで、この時期に気になるのは、やはり「書けない」子の存在だ。今日はそれについてのふりかえり。
子どもが「書けない」理由とは
そもそも、子どもが「書けない」理由は単一ではない。ざっくわけても以下の3つがある。
- 書く気持ちが乏しい。
- 書く技術が乏しい。
- 書く気持ちも技術もあるが、書こうとしているものに満足できない。
とりわけ、「3」のタイプの「書けなさ」は、一定程度の技術を持っているからこその書けなさであり、小学校高学年を受け持っている僕にとっては、むしろ「書ける」子がぶつかる「書けなさ」でもある。
「書ける」子の「書けない」苦しさ
今回の「作家の時間」でもそんな子がいて気になっている。とても読書家の児童Aさん。芸術家肌のAさんは表現すること全般が好き/得意で、とりわけ絵の腕前は息を呑むほど。作家の時間も作品も素敵なファンタジーで、次の作品を読むのが僕も毎回楽しみな書き手である。
去年一年、読むもののレベル向上に呼応して、季節感あふれた描写の作品を生み出してきたAさんが、苦戦したのが最後のユニット。途中まで書いたものに満足できなくなり、完全に方向転換して違う作品を書いて提出したことがあった。そして、今年に入って初めての大きなユニットでは、完全に筆がとまってしまっている。
序盤は色々なアイディアを作家ノートに書いて、読んでいるこちらも楽しいほどだったのだけど、「あの作品は満足できない、方向転換したこちらも物足りない….」という状態に陥ってしまって、ここ2回ほどは表情からしてとても暗い。「つらい?」と聞くと「つらい」と言うし、苦しくなって、やる気もうしなっているみたいだ。かといって、作品を出さないこともしたくないらしい。なまじ「書ける」子で、自分の描く理想のラインもしっかり持っている子だけに、そこに手がとどかない苦しさも大きいのだろう。自分で自分を縛っている状態だ。
この「苦しさ」にどう対処すればいい?
この「書ける」子の「書けない」苦しさ、どうしたらいいのだろう?
まず、これは書き手としての成長段階で経験する「良い」苦しさなのだという考えはある。経験に値する苦しさ。それには僕も同意するが、でも、その子がその苦しさをどこまで引き受けられるかは、関わる大人として慎重な観察と判断が必要だ。過去にももちろんこういう子はいて、たいていは自分で乗り越えていったものだが、目の前のAさんも同じとは限らない。少なくとも、過去の子達は、ここまで目に見えて苦しそうな表情ではなかった。
Aさんには、僕もこれまで、いくつかアイディアの出し方を提案したり、違うジャンルを提案したりしてみた。自分の「書けない」時期の経験を話したり、過去のその子の作品を話題にしたりして、ちょっと表情が明るくなる場面もあった。でも、結果として状況は改善されていない。見ていて気の毒になって、前回のカンファランスでは、作品を出すプレッシャーから解放しようと、「これまでのあなたの頑張りは知っているから、出さなくてもいいよ」とまで言ってしまった。
でも、いま考えたら、それは本質を外したカンファランスだったように思える。なぜなら、Aさんはすでに自分の意思で「書けないけど書こうとする」苦しみを引き受けてしまっているのだから。Aさんのためというよりは、それを見ている自分を楽にするための言葉だったのかもしれない。
とすると、自分にできることはなんだろう。一緒に苦しむことなんだろうか。いや、自分とその子の間で解決しようとせず、他の子とつなぐことなんだろうか。色々と考えても、結局は、次回のその子の様子を見ながら、その場その場で瞬間的に判断するしかない。でも、そこまでにどれだけAさんの物語を想像できているかで、やはりその判断の内容は変わってくるだろう。
カンファランスとは、そういう熟慮と観察の上での瞬間的な判断の繰り返しだ。作家の時間を何年やったところで完璧にできるようになるわけではないし、とても難しい。まして、書こうとしているのに書けない、苦しんでいる子のカンファランスは。
コメントを残す