「自分がいらなくなることこそ自分の望み」という改心物語の魅力

この4月からteachers as writers(書き手としての教師)の先行研究をひたすら調べているのだけど、そのなかでふと思った雑談。

サムネイル写真は人生初の倉敷の美観地区の街並み。今日、倉敷で開催された杉山亮さんの「ものがたりライブ」に行ってきたので、「ものがたり」つながりということでこの記事の写真に。

NWP参加者たちの証言

1980~90年代のナショナル・ライティング・プロジェクト(研修のために教員が実際に書く全米規模のプロジェクト)に参加した教員たちの回想は、驚くほど紋切り型だ。いわく「昔は自分はこんな書き手だったが、研修に参加してこう変化した。その結果、教室ではこんなことが起きた」。どれも似たパターンばかりだなと思っていたところ、Whitney, Anne. (2008). Teacher transformation in the National Writing Project. Research in the Teaching of English, 43(2)という論文で、こんな指摘があった。

NWP(全米ライティング・プロジェクト)が教員向けのサマー・インスティテュートを運営してきた長い歴史の中で、参加した教師たちは「人生が変わった」あるいは「NWPによって変容を遂げた」といった主張を繰り返してきました。こうした主張は、聞く側の立場によって、潜在的な参加者に対するNWPの神秘性や魅力を高めることもあれば、逆に、真剣な学びの場としての評判を落とし、ある種のカルト的なオーラをまとわせることもありました。また、これらの主張は、研究者が「教師たちがNWPで実際に何を学んでいるのか」あるいは「その学びが参加者にどのような影響を与えているのか」を明確に把握することを、時に困難にしてきました。というのも、NWPでの経験に関する既存のデータは、証言調、あるいは宗教的な「改心物語」のような趣を帯びる傾向があったからです。

For as long as the NWP has operated summer institutes for teachers, those teachers have voiced claims that their lives were changed or that they were transformed by the NWP. These claims have tended either to add to the mystique and
attraction of the NWP for potential participants or to detract from its reputation as a site for serious learning and cast upon it a sort of cultlike aura, depending on the perspective of those hearing the claims. And these claims have sometimes made it difficult for researchers to see clearly what teachers do learn in the NWP or how that learning affects those who participate, since available data on NWP experiences has tended to take on a testimonial, almost conversion-narrative feel. (p145, Gemini訳)

これは言い得て妙だなと思った。なぜ、多様なはずのNWP参加者の経験が、こういう一様な「宗教的な改心(回心)物語」になってしまうのだろう。もちろん「この研修に効果があった」という体裁を作るためにそういう証言が要請されたこともあるだろう。ただそれ以上に、参加者にとっても、この改心物語の話型に身を浸すことが心地よかったのだろうという気がしてならない。本当はもっと微細に異なっていたはずの現実は、語りを通して心地よい物語に姿を変えた。ストーリーの力を感じる。

そういえば似た話型の語りがあるな…

これを読んでいるうちに、そういえば教育でもこれと似た語りの流布があるなあと思った。ぱっと思いつくのは、「かつて自分は学級の中心で、児童を引っ張って進む人気教師だった。児童に慕われ、学年の終わりや転任の時には、先生が担任じゃないといやだと言われた。しかしあるきっかけで(たとえば次年度にその子たちが新しいクラスで荒れるなど)、自分の存在が必要なくなる、感謝されなくなることこそが自分の仕事だと思うようになった」という話型。これも実に多くの先生たちが好む改心物語の話型である。この改心物語は、たいてい「自分も昔は…」という、実力ある教員の回想として語られ、聞き手に支持される。

ふしぎだ。それぞれに個性的なはずの先生たちが一斉に、極めて均質的な、あえて意地悪く言ってしまえば凡庸な話型にはまるのはどうしてだろう。いや、もちろん実際にこういう変化をとげる人は一定数いるのだろうし、もしかしたらこれが学級経営の「最適解」に近いので、多くの人が語るのかもしれない。しかし同時に、そもそも教員の熟達の路線がこんな単線的発展段階論をたどるとは思えないし、なんなら人間がそんな簡単に解脱するはずもなく、本当は、こんな平凡なストーリーに落とし込まれない、いろいろな感情や現実がそれぞれにあって、それこそが面白いはずなのになあとも思う。

勘違いされると困るのだけど、僕は改心物語を語る実践者を「真実を隠している」とか批判したいのではない。それぞれの実践者は、それぞれのリアリティをもって変容し、それを語っているだけで、その言葉は完全に実感に裏打ちされたものなのだろう。それなのに物足りなく感じてしまうのは、きっと僕が勝手に、人間ってこんな退屈なストーリーじゃなくて、もっと複雑でわりきれない現実を、感情の揺れを感じながら生きているんじゃないか、そうであってほしいという期待を抱いているせいだ。それなのに、そういう微細な要素が大きなナラティブの力に回収されてしまって、急にその人の人間らしさが出てこなくなってしまうのが、ちょっと物足りないのかもしれない。そういうのを聞かせてよ、って思う。でもまあ、ここまで書いてて思ったけど、そういうのは本や研修などの公式な語りの場ではなくて、非公式な飲み会とかで初めて聞けるものかもしれませんね…。あれ、もしやそれで解決か?

それはともかく、それだけ多くの実践者を惹きつけるこの「改心物語」(自分がいらなくなることこそ自分の望み)の話型の持つストーリーの力に、僕は興味がある。この話型はどうしてこんなにも人を惹きつけるのだろう。こういう教育の世界のナラティブって、研究の対象になってないのかなあ。あったら読んでみたい。

この記事のシェアはこちらからどうぞ!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です