教育学的にはどんな意味がある? 博士論文構想発表会でもらった問い。

前回のエントリでは、8月9日・10日の学会のことを書いた(下記エントリ参照)。

「読むために読む」はどこへ行く? 夏の学会2つの遅いふりかえり。

2026.09.02

でも、この夏いちばん大きかったイベントは、そちらではなくて、広島大学大学院で受けた博士論文の構想発表会だった。今日のエントリは、その構想発表会のふりかえりです。

写真は大塚国際美術館の「天地創造」レプリカ。8月中旬の2日半、妻と長女と3人で鳴門市の大塚国際美術館、倉敷の大原美術館、福山駅前のふくやま草戸千軒ミュージアムに行きました。世界の名画のレプリカを集めた大塚国際美術館は、なかなかのみごたえ。ヨーロッパ(ロンドン→ベルリン)留学中で「本物」が身近な長女は、「レプリカならレプリカじゃないとできないことをすればいいのに」と言ってて、それもまあそうかなとは思ったけど、自分はまあ、これで満足です(笑)

A4で14枚、スライドは使わない

8月中旬に家族が帰ったあとに集中していたのが、博士論文の構想発表会の準備だった。僕は今、広島大学大学院で「書き手としての教師(Teachers as Writers)」をテーマに研究をしようと思っている。構想発表会というのは、簡単に言えば「こんなことをしたいと思っています」ということをA4で14枚の紙に書いて、そこにいる広島大学の先生方からコメントや助言をいただく、そういう会だ。

準備はやっぱり大変だった。下敷きになるものはあったのだけど、自分がこれから何をしたいのか、それがどんなふうに位置づけられるのかを、考えたり改めて整理したりするのには時間がかかる。最初は14枚なんてそんなに書けないよなと思っていたのだけど、意外にそうでもなくて、参考文献だけで下手をすると3〜4ページは使ってしまうしね。ただ、同時並行で本務先の仕事も忙しい時期になったこともあり、結局、スライドをつくる余裕はなくて、その原稿だけで臨むことになった。これはまあ、AI使ってスライド作っても仕方ないよなーという、学会以来引きずっている気分のせいもあったな。

いや、構想発表会はやってよかった。大きく気づいたことが2つあって、どちらも、いただいたコメントからの気づきだ。

「それは教育学的にどんな意味があるの?」

1つは、自分のやろうとしていることを「面白い」と言ってくださる一方で、これは結局、教育学的にどんな意味があるのか、という問いをいただいたこと。博士号にも「教育学」と「学術」があって、あなたがやりたいことは学術のほうじゃないの、というコメントだった。

これは効いた。自分は、教育学とは何だろうということを、ちゃんと考えたことがなかった。自分の風越学園や筑駒の頃を知っている人、あるいはこのブログを長く読んでくださっている方がいたらわかると思うのだけど、僕は基本的に読むことや書くことという現象そのものに興味があって、その舞台がたまたま学校現場だった、みたいなところがある。もちろんその時々で目の前の児童・生徒の教育にはちゃんと向き合ってきたつもりだし、特に風越学園での経験は「教育って何だろう」ということをすごく考えさせられるいい経験だった。でも、「教育学って何だろう」は、それとはまた別の問いなのだ。

これは改めてちゃんと勉強したいなと思っているところ。せっかく、蔵書の多い広島大学に在籍しているので、それを活かして、教育学って何だろうということを少しずつ学んで、考えていきたい。

学位論文だからこそチャレンジできること

2つめは、僕ではなく他の発表者の方にある先生がコメントされていたことなのだけど、学位論文とは何だ、という話だ。

学位論文は、通常3年間、僕の場合は仕事をしながらの長期履修で6年間かけて書く。では、学位論文と、雑誌に投稿する普通の論文の違いは何なのか。学位論文でないとできないこと、学位論文だからこそチャレンジできることは何なのか。これも、あまり考えていなかったなと思う。

さっきの話とも関係するのだけど、学位論文が、教育学なら教育学の知見に新しく貢献するものであることは、論文として出す以上もちろん必要だ。でもそれに加えて、一定の長い期間をかけて大きな問いを追求できるものでもある。たとえば予算を獲得するために問いを小さく設定して、小さく調べて、確実に成果を出す、そういう研究とは、ちょっと違うスタンスを取れる。僕の場合もせっかく時間をかけて書くわけなので、学位論文だからこそチャレンジできることを楽しみたいなと、改めて思った。

課題解決型と、謎解き型

構想発表会の場では、僕以外にも、この春に博士課程に入られた方の研究発表をいろいろ聞いた。それで思ったのは、研究にもいろんなタイプの研究があるな、ということ。

目の前の現実にある課題を解決するタイプの研究と、自分の問いを解くのを楽しみたいタイプの研究が、もしかしてあるのかな、と思う。課題を解決するタイプの研究というのは、現実と理想の間のギャップをどう埋めるか、わかりやすく言うと、ある問題に対してこういう介入をすればそれが解決しますよ、ということを目指す研究だ。結果が大事で、それでみんなに貢献するのが嬉しい、というタイプの研究。一方の謎解きタイプの研究は、その論文の書き手自身が持っている謎への興味を解いていくのがワクワクする、楽しいタイプの研究。

もちろん両者は重なりうるものだけど、自分は、少なくとも後者のモチベーションで強く動くタイプなんだなということを、他の方の発表を聞いて自覚した。

章立てを決めるまでのワクワクを楽しみたい

たとえば、すでに構想を決めていて、博士論文の章立てまで書いて発表されている方もいて、それはすごいな、もうそんなところまで行っているのか、と思う一方で、自分自身は現時点で章立てを出すことにあまり必要性を感じない。良し悪しではなくて、研究を動かすモチベーションのタイプの違いではないか、と思う。

文章というのは、構想が決まれば7割がた書けてしまうものだ(もちろん、書くにつれてまた練り直される、育っていくのは前提である)。構成が決まるとは、問題の解き方が見える、あるいはGoogleマップを使って行き先までの道順がわかる感覚に近い。でも、僕自身はそうなると興味を半分くらい失ってしまうのだ。今の僕の博士論文の構想は「こんな謎を解いてみたい」というところまでで、章立てなんて全然出せる段階じゃないのだけど、むしろ章立てを決めるのは、わりと後ろのほうでいいのかな、と思う。章立てが決まるまでのワクワクを、もう少し楽しんでいたい。そしてそのときには、冒頭に書いた「教育学にどう貢献できるのか」という問いにも答えられたらいいな、と思っている。

いずれにしても、僕の博士論文執筆の旅はまだ始まったばかりだ。自分がしていること、いや、しようとしていることにどんな意味や価値があるのか。学術コミュニティなり社会なりへの接続も考えながら、謎解きを楽しんでいけたらいいな。まあ、苦しいこともいっぱいあると思うし、そもそも書けないと困っちゃうんだけど….。以前にブログで書いたとおり、今は目の前の大学の仕事と博士論文を最優先して、他の仕事はもう全部断ると決めたので(下記エントリ参照)、ある意味、自分をちょっと追い込みつつ、その苦しさも楽しんでいけたらいいなという感じです。

[お知らせ]今後しばらく、大学の仕事と博士研究に専念します(新規のお仕事依頼をお引き受けできません)

2026.08.10

構想発表会のおかげで、改めて頑張らなきゃという気になりました。やっぱりとても有益な、大事な会だったなと思っています。というわけで、まずは読書だ!

この記事のシェアはこちらからどうぞ!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です