読書の気分転換にゲームはあり?「自立した書き手/読み手を育てる」時に問われる教え手の姿勢…。

このところブログ更新が滞っていますが、すべては下記の翻訳の校正が大詰めを迎えているからです。いや、何度見直しても決定的なミスってまだあるものなんですね….。もう一息。アマゾンに書影が出たらここでも宣伝します。


そんな中、今日の午前中は山口県の県立高校の先生とお話をしていました。以前に授業視察においでくださったご縁で、上京の機会をつかまえて2時間半ばかりカフェでお話を。話をしていく中で、「あ、自立した書き手/読み手を育てるって、教員の覚悟というか、姿勢が問われるな」と改めて思った今学期のリーディング・ワークショップのエピソードがあったので、一つここでもメモ。

「難しい評論を読む気分転換にゲーム」はあり?

今学期のリーディング・ワークショップ、「評論」をテーマに掲げたのだけど、ある時、授業中にスマホでゲームをしている生徒がいたのである。僕が見とがめて聞くと、彼はこう言った。

評論はやはり読むのが骨が折れるので、こうやってゲームで時々気分転換しているんです。

さて、リーディング・ワークショップの教師は、彼にどう答えればいいのだろう。確かに彼の読んでいる本は、彼にとってはチャレンジの本だった。前回のカンファランスで確認したのだけど、高1の時に読もうとして、挫折した本だったのである。そして、彼の言う通りなら、彼は「評論という自分にとってはチャレンジになるジャンルの本を読む上で、自分なりに方略を立てていた」ことになる。いわば「自立した読み手」になろうとしていたわけだ。もしこれを頭ごなしに注意してしまうと、「自分なりのプロセスを持ちなさい」という僕の台詞が大ウソになってしまう。でも、授業中にゲームだしなあ…。これがOKになって、もしもみんなゲームしだしたら困るなあ…。

結局、僕は「本当かなー?」という少しの思いを抱えながら、彼の言うことを信じることにして、「なるほど、自分なりのやり方を持っているんだね、それならいい」とそのまま場を離れた。彼は、その日の記録によると、ゲームを間に挟みつつ、本を20ページくらい読んだ。

教師の姿勢が問われる…

さて、この対応は果たしてどうだったんだろうか。僕も「あれは正しい対応だった」と確信できる状態ではない。でも、取り上げるのも何か違う気がした。自分はどういう立ち位置に立てばいいのか。その後忙しくて、彼に聞くのを忘れてしまったけど、この出来事は、また本人にも聞いて、長期的にどんな意味があったか、本人はどういうつもりだったのか、振り返らないといけないことだった気がする。うん、聞いてみよう。それにしても、こういう授業をすると、教師の側の姿勢も問われるよなあ…。

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