道具とうまくつきあえる「自立した書き手」を育てたいな

SNSで作文教育の「手書き・パソコン論争」めいたものを目にしたので、大切な原則かなと思ってることを再確認したくて、メモします。

作文教育の目標は書き手を育てること

作文教育の目標は「書き手」を育てることです。人が文章を書く時には、何らかのテクノロジー(鉛筆もテクノロジーですね)を用いて書く、ちょっと大げさにいえば、人は、周囲の環境との相互作用の中で文章を書く。その時、理想的なのは、「自分の手持ちの選択肢の中で、自分が書く目的に応じて、自分がもっとも書きやすいように、周囲との環境を調整しながら書ける書き手」。僕たちが作文教育の中で育てたいのは、そういう自立した書き手のはずです。決して、どれか一つのテクノロジーに依存する書き手ではない。

道具と自分との相互作用に自覚的になる

だから、例えば、手書き、PCのキーボード入力、フリック入力、音声入力のうち、どれが優れている、どれが最新だという話は、正直どうでもいいかなと思います。大事なのは、書き手である自分にとって、どういう場面でどういう道具を用いるのが一番良いのか、そして、どの道具が、自分にどのように作用するのかについて、自覚的になること

さっき「相互作用」と書いたとおり、人間は一方的に道具を用いるのではなく、その道具によってまた文体や内容も影響を受ける(例えば、今後音声入力が一般化するにつれて、良い文章の規範自体が様変わりするでしょう)。そういう、自分と道具とのインタラクションに自覚的になって、場面に応じた自分なりの最適解を見つけようとする書き手であること。そういう書き手を育てるのが、作文教育の目標なんじゃないでしょうか。

長期的な展望が必要

そのためには、もちろんどれか一つの道具だけ経験させている状態は望ましくない(だから、例えば、もしずっと原稿用紙に手書きだけさせていたら、それはもちろん良くない。PCだけでも、良くない)。同時に、自立した書き手を育てるという長期的な展望のもとであれば、ある時期にある特定の道具を使うことを強制することにも、一定の合理性がある(例えば、ある一定の時期に、習熟のために手書きを強制させていることには、一定の意味がある)。いずれにせよ、ある一場面だけを切り取って批判することも、賞賛することも、できないはずです。

僕自身のICTと作文教育についての考えは、以前に下記エントリで書いています。いま読み返してみると「PC時代の作文教育」という観点にちょっと重点を置きすぎている気がしますね。今の僕はこの時より、「自立した書き手を育てる」原則を押さえようという意識が強くなってきています。この意識を、早く自分の授業で具体化できるようにしていきたいです。

テクノロジーと作文教育の未来

2016.02.12

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