分けられるのかな?「論理国語」と「文学国語」

昨日のエントリでは学習指導要領の国語の部分だけ「つまみ読み」して、あくまで自分の関心に沿ってコメントしてみた。今日はその補足的なエントリ。高校の国語の選択科目「文学国語」と「論理国語」について、ちょっと気になることを書いてみる。ありがちかもしれないけど、この2つって、分けられるんですかね?という話。

新学習指導要領の答申、国語だけ「つまみ読み」

2016.12.23

まずは復習。「論理国語」と「文学国語」ってどんなの?

  • 選択科目「論理国語」は、多様な文章等を多面的・多角的に理解し、創造的に思考して自分の考えを形成し、論理的に表現する能力を育成する科目として、主として「思考力・判断力・表現力等」の創造的・論理的思考の側面の力を育成する。
  • 選択科目「文学国語」は、小説、随筆、詩歌、脚本等に描かれた人物の心情や情景、表現の仕方等を読み味わい評価するとともに、それらの創作に関わる能力を育成する科目として、主として「思考力・判断力・表現力等」の感性・情緒の側面の力を育成する。

  • どうも、論理国語=創造的・論理的思考、文学国語=感性・情緒、という役割分担をイメージしているみたい。

    目次

    文科省 教育課程部会(第101回)配付資料

    http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/004/siryo/1380469.htm

    メリットもあるけれど…

    昨日のエントリでも書いたように、国語を「論理(言語技術)」と「文学」に分けるという主張自体は、そう目新しいものではない。それだけに、それなりの根拠もある。

    メリットも感じる。「誤解のないように伝達することを目的とする」(意味が一意に定まってほしい)論理的文章と、「読み手の多様な解釈を許容する」文学的文章では、確かに同列に扱えない側面があるからだ。

    たとえば授業者としての都合で言えば、「論理的文章の読解はテストで問えるけど、文学的文章の読解はレポートになる」(テスト形式でも実質レポートのように解釈の幅を許容するものになる)という感じである。

    「論理」と「文学」は分けられるの?

    一方で、「論理国語」「文学国語」と分かれてしまうと、「論理的文章」と「文学的文章」がまるで別物のような印象を与えてしまう。でもこの2つ、本当に「別物」なのだろうか

    誤解のないように注記すると、僕は「文学的文章と論理的文章は本質的に区別できない」とまで言うつもりはない。どちらかと言うと、今の僕は「どういう観点で見ると異なっていて、どういう観点で見るとそうではないのかが気になっている」段階である。だから、以下の文章も、自分で考えるためのDiscovery Writing(発見するために書く文章)に近い。また、「論理的文章」にも色々とあると思うのだが、以下では説明文よりも主として自分の意見を主張して説得を目指す文章を念頭におく

    論理的文章は「論理的」ではない?

    この話題に関連して僕が思い出すのは、数学が極めて優秀だったある卒業生のことだ。とても優秀なのに、国語が苦手で嫌いな彼。曰く「論理的文章があまりに非論理的なのが気持ち悪い」というのである。

    これは彼の言うとおりで、そもそも、僕たちの日常使う言葉は、いかにそれが「論理的文章」であっても、数学的な記号操作に比べると、全く論理的ではない。前提から演繹できる(=論理的に確実に言える)ことしか言わない記号的な論理と異なり、「論理的文章」では、ある前提からスタートした文章が、その前提とはイコールでは結べない別の結論にたどり着く。である以上、そこには必ず何らかの飛躍がある。飛躍がない文章など、面白くないし、(あえて言うと)書かれる価値もない。つまり、「論理的文章」の「論理」とは、そもそもが「(飛躍があるのに)説得力がある」程度の意味なのである

    そして、この意味での「論理」の構築には、文学的文章でもよく用いられるレトリックが大きな役割を果たしている。印象的なエピソードを盛り込んだり、具体例や比喩を用いたり、そこから一般化したり、いったん譲歩して反撃したり、逆説の面白さで読者をひきつけたり、一般論をくつがえす面白さで読者をひきつけたり….そんな様々な技術を使うことで、「飛躍」を感じさせず、説得力を高めているのが、「論理的文章」なのだと思う。

    論理トレーニングの問題を解いてみると…

    また、僕は高校生の授業では野矢茂樹さんの『新版 論理トレーニング』を使う。この本にはいかにも「論理国語」が目指すような(?)論理の練習問題がたくさんある。新書や単行本などのいわゆる「論理的文章」から多くの例文が取られていて、その論理の穴を考えるような問題が多い。

    しかし、これだけ多くの例文があるという事実は、逆に「論理的文章が、実はいかに論理的ではないか」ということも示している。実際、さらっと読むと気づかないようなものもたくさんある。これが「当たり前に通用する」のが、僕たちの「日常の論理感覚」なのだ。

    僕たちはストーリーに説得力を感じている

    こうした例に限らず、僕が国語を教えていて強く感じるのは、「僕たちは論理だけでは説得されない」ということだ。実際、人を説得する文脈でよく用いられるのは、論理の組み立てというよりも、印象的なレトリックや物語(エピソード)の力なのだ。統計的なグラフや表を駆使してアフリカへの募金の必要性を訴えるよりも、一人の幼い少女の悲しげな顔を映したポスターの方が、はるかに多くの募金額を集める。客観的な「正しい」データよりも、一人の少女の顔の背後に想像されるストーリーが、僕たちを動かす。

    「論理」と「文学」が分断されないように

    誤解を招かないように書くと、僕は「だからもっと論理を学んで論理的になりましょう」ということを言いたいのではない。また、「人間の世界の理解は非論理的なのだから、論理などいらない」ということを言いたいのでもない。

    僕の考えはそんなにまとまっていなくて、ただ「僕たちのコミュニケーションは論理や文学のどっちかのモードで割り切れるものではないだろうなあ」という印象は抱いている。いわゆる論理的文章にも「文学」的な言葉は数多くあるし、逆に言えば文学的文章にも、そこに特有の「論理」というか、説得力を高めるための、ある必然性を持った言葉の積み重ねを見出すことはできる(少なくとも、そのような「論理」を感じさせる文学的文章は少なからず存在すると思う)。それは、読者によって文学的文章が様々に解釈できることと、決して矛盾しない。

    だからこそ、「論理国語」「文学国語」というふうに科目が分かれた場合、「論理」と「文学」の2つがまるで別物のように扱われ、分断されてしまわないかが、気になっている。もっとも、これらの科目の内容がはっきりしてくるのはこれからなので、ただの杞憂なのかもしれないけれど。

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    2 件のコメント

  • 難しいテーマですね。論理的文章はじつは論理的ではない、論理だけでは説得されない。確かに・・・。私は国語教育の専門ではないですが、分けるのは必然かな、と今回の議論をみていて思っていましたが、なぜ、そう思ったのかですね。今回のブログを読んで思ったのは、内容面ではすごく納得するのですが、いままでの国語の授業がそうなっていたか?なにをみにつけたのかが言えない授業という授業の方法からそのように考えたのかなあと。う〜ん、もうちょっと整理します。

    • ある観点からすると必然に思えることは僕もわかります。でも、どうなんでしょう、という気持ちもあります。ぜひぜひ整理の結果もお聞かせください!