自分の「?」を誰かの「!」に。中高での「研究」の目的とは?

先週のこと。パリに出張にいらした日本の教育関係者の方数名が、ついでにエクセターにも立ち寄ってくださった。その中には、日本の高校の先生、それも、ICT活用や高校生の「研究」活動でかなり有名な先進校の先生もいらっしゃった。その先生たちとのパブでの会話で「中高生への「研究」指導」が話題になったので、今日は中等教育での「研究」指導の目的について書いてみた。書いてみたら特に新規性はない話なのだが、「自分の?を誰かの!に変える」のが、中等教育での「研究」活動のゴールだという話である。

目次

広がりを見せる中等教育での「研究」的活動

まだまだ全体から見ると一部だけど、近年、「論文指導」や「研究」的な授業が少しずつ広がっている。生徒が自分で問いを立てて調査をして、論文にまとめたり、ポスター発表したりするような探究型学習だ。私立では長らくそのような実践を蓄積してきた学校も多く、僕もいくつかの学校を訪問させていただいている。また、最近は国公私の区別なく、SSHやSGHといった「スーパー○○ハイスクール」の指定が増え、そこではそのような学習や発表会が奨励されている。僕が中1で行った「探究レポートを書く」授業も、このような授業形態の一つだろう。

授業終了! 作品集が届く

2015.03.24

では、こういう授業の目的は何なのだろうか。もちろん一般論でいえば「そんなの学校によりけり」だろうが、ひとまず自分の考えをまとめてみたい。

「誰でも研究はできる」から出発しよう

実は僕はこの種の授業を「卒業研究」や「論文指導」と呼ぶことには「安易に論文とか研究とか言っちゃっていいの?」とやや批判的な気持ちもあって、先述のパブでの会話では「自分が研究していない教師がどこまで研究を指導できるのかな」と言ってみた。ただその時に、「あすこまさんだって授業研究をしているはず。研究は別に大学の研究者だけがやるものではない」という意見をいただいて、なるほどなと考えを変えた。確かにその意味でなら、誰でも研究はできる。別に学術機関にいる研究者だけに限った話ではない。

誰でも研究はできる。中高での「研究」的授業については、この前提から出発してみたい。好奇心があり、解決したいという問いがある限り、誰でも研究はできる。ほぼ義務教育でもある中等教育での「研究」的授業は、いたずらに研究のハードルを上げるよりも、誰でも研究ができることを前提にする方が良いのかもしれない。興味を持ったこと、不思議だなと思ったことを調べ、それを他者に何らかの形で表現する。表現の形はいわゆる「論文」や「ポスター」に限らず、絵画でもパフォーマンスでも商品開発だって構わない。自分の問いがあり、探究のプロセスがあり、答えが何らかの形で表現されていれば、それを広い意味で「研究」と呼びたい

「大学の研究の真似事」ではいけない理由

「研究」を「大学での研究」に限定しないのは、幾つかのメリットがある。第一に「大学生がやるようなことを高校生がやっているからすごい」というような勘違いを、教師も生徒もせずに済む。単なる先取りは全然すごくなくて(だって大学生になればもっとちゃんとした指導者のもとで出来るんだもの)、むしろアカデミックな世界の表現やルールに(良くも悪くも)縛られる前に、中高生のうちにしかできないことをやった方が良いこともある。

第二に、「大学での研究(学術研究)」を変に真似て中高で指導してしまうと、それが中途半端だったり教員の理解が浅かったりで、かえって大学での指導に迷惑をかける可能性も高い。なんといっても僕たち中高の教員はアカデミックな研究の経験がほとんどないか、とても浅い。個人的には、僕のような修士号持ちの教員や、今後増えるだろう博士号持ちの教員ほど、それを常に自戒した方が良いと思う。別に学術論文を書いていないのに、過去の経験をもとに「プチ学術研究」みたいなことを中高でやってしまうのは、ただの教師の自己満足になる可能性も高いからだ。

まあ、簡単に言うと、学術論文を書く指導は素直に学術論文を書いてる人たちに任せて、中等教育では中等教育の時期だからこそでできることをやりましょうよ、ということ。

どの分野に進んでも必要になる部分を育てよう

では、中高の時期でこそやるべきこと、とは何だろうか。この年頃の生徒は、単に大人の言うことを鵜呑みにするのではなく、自分の意見や問いを持ち、それを周囲の人々にも表現したくなる時期である。僕たち周囲の大人が助けて励ますべきなのは、そのような問いを持つ姿勢、突き詰めて考える姿勢、それを表現して他者と共有する姿勢だろうと思う。

だから例えば、通常の一斉授業ではまだ少なそうな「自分で問いを持つこと」や「その問いを育てること」の楽しさと難しさを中心に授業を組み立てたい。いくつか参考になる本はある。例えば次の2冊の本はその「問い作り」が中心になっていて、仮に論文指導の形を取っていなくてもとても得るところの多い本だと思う。

あとは仮説を立てたり検証したりという、研究の本当に基礎的なやり方を身につけたり(これは理科の授業でもすでにやってるかな?)、それを何らかの形で公開して他者に見てもらったり。

特に、単に自分の面白さを追求するだけでなくて、その価値を他人にもわかる形で伝える練習、言い換えると「自分の問いの価値を社会的文脈に置き換える」練習は、高校生くらいになったら大事だと思う。それはきっと、将来どの分野に進むにしても必要なことだから。

自分の?(はてな)を誰かの!(びっくり)に

ここで思い出すのは、以前に訪問した某図書館の司書の方が、図書館を表すのに「あなたの?(はてな)を!(びっくり)に」というキャッチコピーを使われていたことだ。その言い方を借りると、中高の研究のゴールは、「自分の?(はてな)を誰かの!(びっくり)に」というところにあるのだろう。

近年、スーパー○○ハイスクール事業や国際バカロレアへの注目度の高まりとともに増えつつある、中高での「研究」活動。こうした活動は大学の学術研究の先取りというよりも、日本の教育でこれまでもずっと議論されてきた総合学習の具体例の一つだと認識できる。以前に、戦後すぐの教科「自由研究」について調べたけど(関連記事参照)、これらの試みの延長上に、いまの「研究」活動を位置づけ、いたずらに「ハイレベル」「本格的」を追いかけて「大学の先取り」をするのではなく「中等教育だからこそやるべきこと/できること」を追及していくのが良いのではないか。こう書くと本当に当たり前のことなのだけど、改めて自戒しないとなと思った。

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なお、この記事は中高の「研究」指導と大学の研究との距離を強調しているように読めるが、特に先行研究を参照して引用したり、特定の研究方法を使ったりということになると、もちろん大学での研究のやり方は中高の「研究」でも大いに参考になる。実際には教師が生徒に教えないといけない点もたくさんある。そういうことを含めた教師の役割については、またいつか書いてみたい。

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