[ITM初版]「書く時間」は、アトウェルも「書く時間」

前回の更新では1987年初版当時と2014年の第三版当時の授業時間割を比較したが、どちらの版でも30分確保されているのが「書く時間」だ。実際に生徒が文章を書き、アトウェルがその間を回ってカンファランスする時間である。

[ITM初版]アトウェルの変化と「共有の時間」

2016.02.14


 

自分も授業中に書いていた初版のアトウェル

第一版では、初日の「ミニレッスン」から「書く時間」に移行する場面を描写した次のようなシーンがある。

それから私は空いた席に座る。私が白い紙とお気に入りのフレア・ペンで何をしているのか、子供たちにもはっきりとわかるように。 私は自分の原稿に「下書き No.1」と書いてうつむく。それから、ミニレッスンの時間に考えていた物語を書き始める。頭を上げることはない。生徒の誰が書いていて誰が書いていないかなんて見ていない。私は自分の仕事に忙しいのだ。そして私の姿勢は、私が他のみんなに書き手になって欲しいこと、私もその一員に加えて欲しいと願っていることを、雄弁に物語っている。

そして、彼らはそうしている。10分かそこらの後、私が自分の原稿から頭を上げた時には、クラスの誰もが書いているのだ。いつもそう。その時が、私のワークショップのもう一つの役割が始まる時だ。私は自分の原稿を脇に置き、生徒たちの間を動き回り、静かにカンファランスをする。(p84)
 

僕の確認不足だったら申し訳ないのだけど、この記述もやはり第二版(1998)以降には存在しない(該当しそうなのは第2章第5章)。第二版では、ワークショップ最初の週のアトウェルはとにかく全員にカンファランスをすることが大事と言っていて、とても忙しく生徒の間を回っている(143ページ)。自分で作品を書いている暇はなさそうだ。そして、僕の記憶違いだったら申し訳ないけど、第二版(1998)や第三版(2014)のアトウェルは、自分の書き手としての守備範囲を生徒に示したり自分の作品を見せたりはするけれど、ミニレッスン以外の「書く時間」で自分が書いている姿を見せてはいないのではないか、と思う。

ワークショップの「型」から抜け出すアトウェル


何度かこのブログで触れているけれど、優れた作文教育の実践者は、自分も文章を書いている人であることが多い。特にアトウェルの師であるドナルド・グレイブスは、次のエントリで書いたように、まず教師が書き、その姿を生徒に見せることの効用を強調していた。

作文を教える秘訣は、自分が書くこと。

2015.01.19
「共有の時間」がなくなっていくという前回のエントリ内容もそうだけど、第一版(1987)当時のアトウェルは、こうした先達たちの教えにかなり忠実に授業を実践していたのかもしれない。もしライティング・ワークショップを一つの完成したパッケージとしてみるならば、第一版から第三版への彼女の変化は、こうした「型」から彼女が次第に抜け出て、自分なりのライティング・ワークショップを作っていく歴史でもあるとも言えそうだ。

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