現場教師が教育研究を学ぶのは何のため?

僕のいるエクセター大学のMSc Educational Researchコースは、教育研究者を育成する博士号を取るためのコースの一年目という位置づけになっている。だから、学生には、「これから大学で研究者を目指します」という人か、チリアンさんのように「母国で大学の先生をしていて、博士号を取りに来た」という人が多い。僕のように「中等教育の教員です、帰国してからも中等教育の教員やります」タイプは非常に少ない。

とすると、「あなたなんでわざわざ教育研究者養成のコース来たの? 英語の先生ならTESOL(英語教授法)に行くけど、英語の先生でもないみたいだし」という話になる。僕のような「学校の先生」が教育研究法を学ぶことに、どんな意味があるんだろう?

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自分の「直感」や「手応え」を信じる怖さ

 
これまで大学でクラスメートに聞かれた時には「授業であまり自分の直感を信じられないから」「自分の振り返る視点を手に入れるため」と返事をしてきた。僕は基本的に論理よりも「面白そう」などの直感で動く人間で、留学の理由も実のところ大半がそれなのだけど、わざわざ教育研究法コースを選んだのは、「でも自分の直感を信じるのも怖いよね」という気持ちもあるからだ。 

もう10年くらい前の話。現任校で最初で受け持ったのが元気いっぱいの中学一年生で、どんどん手を挙げて発言してくる子たちだった。当時の授業スタイルは一斉授業で、みんなの気持ちを乗せながらたくさん出る意見をさばいてクラスごとに解釈を作っていくのが楽しくて仕方ない時期。生徒も面白がって参加してくれたし、たまたま見学に来た外部の方にも「みんなが積極的に参加しててすごいですね」と褒められたりして、自分なりに手応えもあった。

でも、ある時「指名回数が偏らないように誰が発言したか記録しておこう」と数えてみると、実はこれが20人くらいしか発言していなかったのである。軽くショックだった。「みんな」参加していたと思ったのに、実際は40人学級の20人。僕にとっては残り半分の生徒は「背景」になっていて見えなかったのである。自分の「手応え」や「直感」っていい加減だなと実感した瞬間だった。

目的1:自分の「直感」「手応え」を振り返るため

これ以降、僕には自分の「直感」「手応え」を信じすぎるのは怖いなという思いがある。僕はつい自分にとって都合の良いものを見てしまうし、生徒も(関係がうまくいっていればいるほど)こちらの願望を忖度してくれてしまう。もちろん最終的に信じるものは自分の直感なんだけど、でも信じすぎないほうが良い。

教育研究の手法を学び、授業の効果を測定したり、そこで何が起きているのかをきちんと眺めることは、こういう自分の「直感」や「手応え」を別の視点から振り返ることにつながる。 実際には一人でそれを実施するのはなかなか大変だけど、他の人と組んでやることもできるし、教育研究のやり方を知っているだけでも、自分の授業を少し離れた視点から振り返ることにつながるだろう。

目的2:「研究」の良き消費者になるため

 
第二の理由として、「研究」の良き消費者になるため、という考え方がある。これは、Goldacreという人が次のウェブサイトで書いていた考えだ。

▷ Teachers! What would evidence based practice look like?
 
(ちなみにこの人は、先日書いたこちらの記事との絡みでいうと、「実験デザインをもっと教育に取り入れろ」派です)

対照実験は非倫理的? 「実験デザイン」をめぐるモヤモヤ感

2016.01.24
彼が語っているのは、教師が教育研究を学ぶべき理由は、研究者になるためではなく「新しい研究の批判的消費者になるため」ということだ。この考え方は、なるほどなあと思った。

学校現場は、基本的に「子供にこうあってほしい」といういろいろな願望が渦巻く場なので、その願望を満たすべく「科学的研究の顔をしたもの」が入り込みやすい。古くは「水からの伝言」や「ゲーム脳」なんかがいい例だけど、以前に下記エントリで書いたように、「ラーニング・ピラミッド」だって、あのわかりやすすぎる数値といい、「とにかく『教えあう』ことが一番効果的」という結論といい、とうていまともな「研究結果」とは思えない。ごくごく常識的に考えれば、一斉授業にも多様な一斉授業があれば「教えあう活動」にも多様な活動があって、何が最適かは学習者も含めたその場の文脈によっていくらでも変わりうるはずだ。

ラーニング・ピラミッドは眉唾だ

2015.04.29
メディアは得てして、本当は複雑で一言では説明できないはずの研究の、結論のショッキングな部分だけを、それとは反対の立場を無視して、強調して伝えてしまう。「実は○○は効果的学習法だった!」みたいな記事の大半は、そもそもの論文にある詳細な研究対象や手法に関する「但し書き」や、反論も含めた膨大な「先行研究」を省略して、当初の研究と似て似つかぬものになっているはずだ。

こういう、ショッキングな結論だけ切り取った「なんちゃって研究」が「科学」の顔をして学校に入り込んできた時、教員の側に一定程度の「研究を読むリテラシー」があれば、それに振り回されることも少なくなる。「この研究はそもそもどんなサンプリングなの?」とか「効果を何で測定したのの?」「研究の限界は?」などと、慎重に対応して、研究の結果を自分の授業に活かすことができるだろう。そういう、「研究の良き消費者」になれることも、教師が教育研究法を学ぶことの大きなメリットだ。

教師が気軽に「研究方法」を学べる場があってもいい


とはいえ、研究方法を学ぶのには膨大なリソースが必要。小中高の教師に大学院に入って勉強しましょう、というのは無理な話だ。そこで、研究方法や研究結果の見方のエッセンスだけでも、大学の先生が出張講座などでレクチャーしたり、ワークショップを通じて学べる機会が欲しい。先のウェブサイトでは、上海の事例として、学校の教師たちが集まって論文を読む「ジャーナル・クラブ」という活動が紹介されていた。こういう活動も素敵だ。

学校教師が研究方法を学ぶことには、きっと色々なメリットがある。僕はまだこちらでたった半年の勉強期間だけど、それでも効果を感じている。だから、教師がもっと気軽に研究方法を学べる機会があればいいと思う。大学の教育研究に関係する方々、ぜひご検討いただけないものでしょうか。

 

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