「振り返り」を書くことは自己を客観的に振り返ることにつながるか?

昨日の質的研究法講座の場で岩瀬直樹さんとちょっと話したこと。自分をメタに認知するために振り返りを書くことは、本当にメタな認知につながるのか? という問題。

結論から言うと、つながる場合もあるし、そうでない場合もある。ただ振り返りを書けば(あるいは語れば)自己を客観的に振り返ることになるのかというと、それは絶対に違うだろうということだ。

一番考えられる危険が、振り返りを書くことが、そのまま自己の信念の強化になってしまうケースだ。人はだれでも自分の人生を物語として生きている。だから、新たな経験のうち、その物語にとって邪魔な要素は、振り返りを書く時に本人も気づかないくらい巧妙に切り捨てられ、自己に都合の良いエピソードだけが選択されて、振り返りとして物語の中に組み込まれる。そして、人は新たな要素で補強されたその物語を書くことで、あるいは語ることで、自己の物語の無矛盾性をいっそう確信し、ますます現状を維持する思いを強化するだろう。そこには、もう自己の客観視もなければ、振り返ることで生まれる新たな発見も変容もない。

実際、書くことや語ることの洗脳力?って馬鹿にならない。例えば、僕自身もこのブログを主に自分の学習用に使っているのだけど、書けば書くほど自分がライティング・ワークショップの理念を「正しいもの」と信じこんでしまう危うさを、全く感じないではない。また、大学での「学習指導と学校図書館」の授業でも、自分の学校の図書館の方針とはやや異なる一般的な解説をすることもあるのだけど、その解説に自分自身が引っ張られかねない怖さも覚えている。

振り返りを書けば、あるいは語れば、メタ認知能力が高まって自己を客観的に振り返られる、なんてことはない。自己を客観的に振り返るには、他者からのフィードバックはもちろん、自己を振り返るための環境整備が必要なはずだ。それは何なのか。

厄介なのは、振り返りが自己語りである以上、常に自己物語に回収されてしまう構造を持っていることだ。「自己物語を強化していたことに気づいた」ことだって、それがまた新たな物語の要素として回収され、自己物語の強化につながる構造になっている。考えれば考えるほど意味がわからなくなる「振り返り」の仕組みと効果。少しは距離を起きつつ、それがいったい何物なのかをきちんと勉強しないといけないなあと思う。

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