プロの書き手を教室に呼ぶ意味

引き続き読書中のWriting Voicesには、Professional Writersについての章が2つあって、そのうちの第9章では学校の教師と一緒に授業をつくったプロの書き手3人がその経験を語っている。



その言葉が、書くことへの洞察や学校への批判を含んでいてなかなか面白い。羅列する形になってしまうが、以下にかかげておこう。

・書くことは、できないことに向き合うこと。
・クリエイティブ・ライティングの成否を判断する基準は、書き手が自分が書きながら発見したことに驚いているかどうか。
・自分の中にある「不確かさ」を信頼すること。
・作文教育は、傾向として、フォーマルな文章を書くよう生徒を急かしすぎて、目の前の土地をきちんと掘ることに失敗している。
・書くための準備の仕方は、書き手によって本当に様々だ。
・(書く前にインスピレーションを得るのかという質問に対して)より深いインスピレーションは、後からやってくる。
・書くことの楽しさやその実験的試みは、評価することで簡単に台無しになってしまう。
・子供がプロの書き手に会って知ることができるもっとも大切な点は、楽しさと自由さと驚きが書くことの鍵だということだ。
・プランニングの重要性を言い過ぎることは控えなくてはいけない。(学校ではプランニングやプロットを重視しすぎ)
・一番効果的なワークショップは、教師なども含めた全員が参加するワークショップ。

これらの言葉をざっと並べるだけでも、学校での作文教育の限界が見えて面白い。学校はどうしても生徒の活動の成果を評価しないと気が済まない場所なので、プロダクト・アプローチ(成果物の質をあげることを目的にするアプローチ)になりがちで、プロットや構成などを教える「事前制御」によって生徒の文章の質を保とうとする。

しかしその側面が強くなると、書くことの楽しさや自由や驚きからは離れていってしまう。同時に、書くことは本来自分の限界や不確かさと向き合う不安な営みでもあるから、安心してチャレンジできる(=失敗できる)ことも必要なのに、「文章の質」を重視する作文教育は、そうした安心できる場も用意してくれない。

これは程度の差こそあれ、学校教育の一環として行う以上は避けられない作文教育の一側面なのではないか。

プロの書き手を教室に招くことの意義は、おそらくは僕も縛られているこのような作文教育的文脈を、学校の外の書き手によって相対化することにあるのだろう。自分はゲストティーチャーとして編集者の方にきてもらったことはあるけど、プロの書き手(作家であれ雑誌ライターであれ)に教室に来てもらったことはない。早く実現させて、できれば一回だけでなく一緒に授業を作りたいくらい。どなたか興味をお持ちの方、いませんか?

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