作文指導が生活指導になっていくとき

作文教育に関心がある人間としてわりと深刻な問題と受け止めているのが、どこまでを作文の教師の仕事の範疇にするのかという問題だ。

教師が文章自体の誤りを訂正することに終始していれば、仕事の範疇もはっきりしているし気楽かもしれない。しかし、「文章自体の意味が通じる文章」がイコール「良い文章」ではないので、やはり「書き方も大事だけど、最終的にはその中身=アイデアが大事」という考えに至る。ここまでは良い。

しかし、「書き方よりも中身が大事」という一件ごく穏当でまっとうな考え方は、「その中身をどう得させるか」という考えにもなり、それがさらに一歩進むと「正しい中身を得させるためのより良い生き方指導・生活指導」の色彩を帯びてくる。ざっくり言えば、大正期の『赤い鳥』などで展開された文芸主義的な自由作文に対して、大正末期〜昭和期を通じて日本の作文教育の中心にあった「生活綴方」には、そのような生活指導の側面が色濃かった。

その一例として、千葉春雄『生活させる綴り方指導』(1928年)に書かれた生活綴方の考えを引こう(ただし、滑川道夫『日本作文綴方教育史3 昭和編』からの孫引き)。

そもそも生活指導の綴り方とは、その要求の最初において、どんな意味、どんな要求のものであつたか、多くの人たちは、殆どそれを忘却して生活指導の綴り方なるものに狂奔してゐる。思ひ起こしても見るがいい。文は結局技巧ではない。文字上のいひまはしの巧みさが文ではない。どんなにさういふ才能がうまいとて、決して人を動かすことはない。人の心を射、人の心にくひ入るところのものは、結局その文の内容である。が、この内容も、単なる知識とか感情とかいふものではなくして、生活上に、あるひは体験の上に、よく意味を知りぬき、感じぬきしたところの知識なり感情なりである。つまり、概念としてあるところのものではなく、また見聞によつて得たところを真似ようとしたものではなく、つぶさに自己の生活の上に経験した知識なり感情なりが、ほんとの文のよさを決定するといふのだ。だから、生活をこやせといつた。豊かにせよといつた。これを失つてはいけないといつた。単に想像を美化したのでは空虚だともいつた。も少し真実にせまつて、つまり生活の上に経験して、それが語られ、それが述べられる事が、文字上のいひまはしなどに苦心する文よりは、どんなに価値高いものであるかをいつた。
そういふことを要求するのが生活指導の綴り方なのである。だから、さうした生活を得させよと叫ぶ。あの人はああいふ文をかいてほめられたから、自分でもああいふ文をかかうといふことをやめにして、ひたすら自分の生活を反省し、その実際を語るやうに要求した。それが生活指導の綴り方なのである。
だから、生活を無意味にするな。生活を反省することを忘れるな。見聞の興味にひかれるより、自分の身辺を凝視するがよい。生活をそのまま放置しないで、なるべきは内的な意味にまで高めてみよ。さういふことを指導するのが生活指導なのである  (153-154ページ)


こういう文章を読むと、文章の善し悪しにその人の生活(生き方)が反映することへの納得感や共感と、このように守備範囲を広げた結果として「作文教育」が「生活指導」に傾斜していく危険の両方を感じてしまう。ライティング・ワークショップにシンパシーを感じる僕にとっても、これは他人事ではない。この問題、まだ自分の中で方針が定まっていない。 いったいどうやって線引きをすればいいのだろうか? 

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