芦田恵之助の読書教育論

大正期の教育者の中でも、この人の実践はきちんと読まないといけないなあと思う。芦田恵之助。首藤久義さんにいただいた3つの論考を読みながら、改めてそう思った。

 首藤久義「芦田教式をどう受け止めるか」『国語実践研究』8.1,1984
 首藤久義「読むことに帰ろう」『読書科学』30.4, 1986
 首藤久義「読むことの本質と指導のあり方:芦田恵之助に学ぶ」『国語実践研究』11,1987

これらの論考の中で首藤さんが引用している芦田の言葉に惹かれる。孫引きになるけれど、いくつか印象的なものを引いてみる。

吾人の日常生活に顧みるも、読みが事なく通ずる場合には、意義は既に六七分解することができる。(中略)然るに当今の読み方教授は、不十分なる通読の上に、意義・文法・修辞等の取扱を試みておる。もし砂上の楼閣が危険であるということならば、かかる教授も亦危険であるといわねばならぬ。今日の読み方教授に特に声を大にして要求すべき事である。
                       (『読み方教授』)

読み方の教授は、読むということに終始するのです。これが始めで、これが終わりです。  
                       (『第二読み方教授』)

読みは一回だって同一な訳がありません。理解が進み、それにつれて、音声に表現する創作的の工夫が進むものとしたら、(中略)読みがその都度変わって行くのが当然のことです。この立場に経って、今の小学校の読みを考えたら、生気の乏しい訳も、読本の読めない訳も、忽ちにおわかりになりましょう。本来易行なるべきものを、殊更に難しくして、師弟共に悩みぬいているのではありませんか。           (『国語教育易行道』)

むやみに拍手したり、発言を争ったりすることなく、読むにも一心、聴くにも一心、書くにも一心というように仕向けたい。          (『国語教育易行道』)


「随意選題」の言葉で知られるように、芦田恵之助と言えば綴方教育で生徒に自由に書かせることを主張した教育者として有名だ。滑川道夫『日本作文綴方教育史』の第二巻(大正編)では、芦田の随意選題論が、その成立過程から、それが「自由選題」として広まっていくまで丁寧に描かれている。

 何を書くか生徒に選択させて書いている生徒に指導するというスタイルがライティング・ワークショップと共通しているので、いずれきちんと読んでみないといけない人だとは思っていたが、上記の引用部分を見る限り、とにかく実際に読むという行為を重視する彼の読みの教育論には、アトウェルのリーディング・ワークショップとの共通点も感じる。何が同じで何が違うのか。いずれ確かめないといけないだろう。

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