なぜ中高に「図書」の時間がないのか

国語教師の多くが「読書が大事」と言う。これは基本的に正しいと僕も思う。

僕も国語が得意だったのだけど、その理由を一つ挙げるとしたら、やはり読書量、特に小学生時代の読書量だ。学校の国語の授業は「自分では読まない文章」に接する機会ではあったものの、基本的には、自分が国語が得意であることを確認する場で、国語の授業のおかげで国語力が伸びたという実感はない。もちろん自分の体験を根拠に教育全般を語る「オレサマ教育論」に陥る危険はあるけれど、他の語学(例えば英語)の熟達を考えてみても、言語の熟達のかなりの部分が日々の継続に基づく「量」で決まるのは、ほぼ妥当な見方なのではないか。

だとしたら、国語力をつけるには、シンプルに日々たくさん読み、たくさん書けばいいはずだ。 しかし、そういうシンプルなことを、普通の国語の授業ではやらない。読むことに話を限っても、多くの場合、一ヶ月近くかけて20ページくらいの文章を、40人みんなで読む。これだと、分量で言えば通常の読書よりも圧倒的に少ない。

なんでだろう。なんで、全員で一つの文章を精読するのか。もちろん精読によって得られるものもある。みんなで同じ文章を読むことのメリットもある。しかしそれは、例えばまったく同じだけの時間、生徒が個々に本を選んで読書するのと比べて、本当に効果的なのだろうのか。僕の中には、「そうではないのではないか」という思いがくすぶっている。精読や、全員で一つの文章を読んで意見を交流することは、たまにやればいいことで、バランスから言えばまず何よりも量が必要なのではないか。

例えば、小学校には「図書」の時間がある。形態は様々だろうけど、娘(8歳)の学校では、好きな本を選んで読んだり、感想文を書いたりする時間らしい。自分で本を選ぶ、自分で目標を決めて読む、一冊まるごと読む、継続的に読む。そういう経験をするいい機会だと思う。なんで、この「図書」の時間が中高にはないのだろう。もし「読書は大事」だと言うなら、そういう大事なことになんで授業時間を割かないのだろうか。「読書は家でしなさい」と言って授業時間を割かないことは、結局、「授業時間を割くほど大切とは思っていない」ことを意味するのではないか。

 最近、ナンシー・アトウェルのIn the Middle第三版を読み始めた(月に100ページずつ、半年かけて読む予定)。ナンシー・アトウェルは、生徒が自分で読みたい本を選んで読み進める授業(リーディング・ワークショップ)の先駆的な実践者の一人だ。 こういう授業は、日本ではまだ少なく、小学校で実践例が本になっているくらい。




自分も一度リーディング・ワークショップをやったことがあるけど、継続的にはできていない。基本的にはリーディング・ワークショップのやり方(個別自由読書)が「読む力をつける近道」と思っているはずなのに、だ。

だから以上の問いは、「自分はなぜ、できていないのか」という問いでもある。なぜなんだろうか。

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3 件のコメント

  • 高校で、通常の授業と同じように図書の時間を1コマ確保するために、どの授業を削るか…。ここでもめるでしょう。進学校ではもちろん、それ以外の学校でも。
    私は、「朝の読書」を立ち上げる担当になったことがありました。毎日朝の10分間。1週間、5日間で50分、ちょうど授業1コマと同じ時間。この時間を捻出することにもいろいろと意見がありました。10分間でも部活動の時間を削りたくないとか、本を読む以前に読み書き計算のドリルが先だろう、とか。読書は共生するべきものではない、とか、うちの生徒に読書は無理、という声も。
    どうも「読書は大事」とは思っていない教員も少なくないようです。私は、役目柄=図書館担当者だからではなく、「読書は大事」だと実感しているから、「朝の読書」を今でやってきました。でも、そういうおとなの考え方を変えるだけのエネルギーはなく、生徒のために貴重な時間を確保する(=「朝の読書」の時間をなくさない)ことだけを心がけています。

  • コメントありがとうございます。確かに、どこの時間を削るのか、というのが大きな問題になりそうですね。
    「読書は大事とは思っていない教員も少なくない」というのもあるかもしれません。実は読んでいる人って少ないですし….。実感レベルじゃなくて、明確に学力の向上に寄与するということを言えるかどうか、なんですかね。
    僕自身は、国語の授業時間の一部を読書に切り替えても良い気がするのですが、なかなか同僚を説得するのは難しそうです。

  • 小学校でも、読書=教育=図書の時間を作る、と少なからずの先生方の中で結びついていないようです。まだまだ、読書をして憩う・楽しむ・読書に親しむ、というイメージの方が強いような気がします。なぜなら4年生以上になるとがぜん図書の時間の利用がなくなるからです。図書の時間は低学年の物、という感じですね。高学年は自主性に任せる感じでいいと思われている先生も多いようです(学校によってもそういう判断で図書の時間のない小学校も)難しいです。自治体で、図書の時間は年間〇時間、というのを決めているとある程度活用してくれるようですが。