根拠を問うことと、与えられたものをやること

遠方から東京に来た国語の先生と、お互いの学校や授業の様子について情報交換する機会があった。話しながら30代後半男性2人で、こんなパンケーキを美味しく食べたわけです(笑)

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その席での会話の流れから、僕が相手の先生に「なんで国語の授業では、40人の生徒が一斉に同じ文章を読まないといけないんだと思います?」 と聞く場面があった。

実は僕自身は、国語の授業のおかげで国語力がついたという実感が一切なく、プライベートでの読書量や書く量が自分の国語力の基盤になった人間だ。その経験もあって、語学と同じで、国語は読み書きの量がその力の形成に圧倒的に重要だと思っている。だから、通常よくある「20ページ程度の短編小説を、一ヶ月かけて40人で精読する」スタイルは、読解力育成という目的の上で効率が悪すぎるのではないかと、どこかで疑っている。もちろん精読の授業があっていいけど、その授業は多読の基盤の上にあるべきで、ずっと精読では読むべき量が圧倒的に足りなくなるのではないかと。国語の授業なんかやるよりも、その時間ずっと読書しているほうが、かえって力がつくんじゃないかと。だから、この質問は僕にとってわりと真剣な問いなのだ。

相手の先生のお返事は、「あまりそういうことは考えない。読解の方法や授業の教材についても、疑問を持たないわけではないけど、まず、与えられたものはやる。やるかやらないかではなく、どうせやるならどうやればいいのかを考える」というものだった。しごく穏当といえば穏当な答えなのだけど、その答えに、その方のプロフェッショナリズムを見た気がする。自分の好き嫌いはこだわりがあっても、いったんそれを脇においておいて、国語教育において価値があるとされているものはやりますよ、という姿勢。いろいろなやり方や教材も、授業をよくするためにとりいれられそうなものはまずはとりいれてみよう、という姿勢。

その答えを反芻しながら、どうやら自分にはそういう姿勢が足りないなと思った。なぜそのやり方をしないといけないのかを常に問い続けることと、その疑問に火をつけたままいったん脇において、与えられた仕事をきちんとこなすこと。この二つを無理なく両立させることは、なかなかに難しいものだ。

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