教室で同性愛を差別する発言に直面したとき

中学生の授業をしていたり、休み時間にふと教室に入ったりすると、時折、生徒たちが同級生のことを「あいつはホモだ!」と笑ったり、同性愛を茶化すような発言をしている場面に出会う。まあ、性的なことに一番関心のある年齢だし、中学生はまだ分別もついていないので、仕方のない面もある(とはいえ、高校生だって、「教員の前ではそういう発言をしない分別」こそあれ、仲間内では似たようなものだと思う)。

こういう発言が同性愛を含む性的少数者(LGBT)への差別であるには間違いないので、授業中などにあまり行きすぎた発言があるとたしなめて、そういう話をしたりすることもある。

しかし、生徒にLGBTの話をして、君たちの発言は無自覚だろうけど立派な抑圧だし差別なんだよと言う時に、自分でもなんとなく座りの悪さを感じている。なんだかすっきりしないのだ。

それは、なぜ同性愛差別が、というよりもあらゆる差別が良くないのかをきちんと説明するのが、僕にはなかなか難しいからだろう。よく言われるのは、「本人の意図ではどうにもならない生得的なものに対して差別をしてはいけない」、ということだ。僕自身は子どもの頃から、それである程度は納得してきた。

でも、同じく生得的なものである容姿による差別は現実に社会にあるし、本人の努力による所が大きいと見られる学力だって、親の収入や生育環境や「努力する才能の有無」などの、本人の努力以外の要素が大きそうだ。僕たちが生きているのは、「生得的なものでは差別されない」社会ではない。現実に、差別は社会の色々なところにある。そして、そのような差別に対して、「そうはいってもこれは現実に仕方ないよね」と容認している自分もいる。

もちろん記述と規範は異なるから、現状の社会が差別的であることを認めた上で、「それでもあらゆる差別はよくない」と訴えることは可能だ。しかし、それもまたラディカルに過ぎる。おそらく、あらゆる差別に反対することは、現実の運用を考えると実際にはできないのではないか、という予感がする。僕たちはきっと恣意的に一線を引いて、「容認可能な差別」を「区別」とし、そうでないものを「差別」として糾弾しているだけなのだろう。結局は、「○○差別」がいけない理由は対象である「○○」そのものの中には見出し得ず、社会的合意としてそういうことにしている、としかしか言えないのではないか。だからこそ差別の境界線は時代や地域によって流動する。

そのあたりが、生徒の差別的発言について自分がたしなめる時の、何とも言えないわりきれなさの正体ではないか。同性愛に対する差別的発言は容認しないと発言する自分が、別の差別についてはおそらく無意識にスルーしているだろうという予感――それどころか下手をすると、「俺は黒人と差別主義者が嫌いだ」みたいなことを、きっとどこかで無自覚に言っているだろうという予感が、自分の対応を曖昧なものにしている。

調査によって幅はあるけれど、LGBTの割合は確実に数パーセントはある。だいたい40人学級なら生徒の1人はLGBTだ、というつもりでいたほうがいい。学校の教員としてはもちろん、彼らが多数派に差別されて辛い思いをすることが少なくてすむ環境を整える必要がある。

僕の授業でも以前、ある生徒がブックトークで「昔は自分を男だと思っていたけど、今は自分の性自認がわからない」と発言したことがあって、皆の前でそう言うのは勇気が必要だろうなと思ったと同時に、そう言っても平気な環境を保つことの大切さを感じた経験がある。

その生徒のように性自認で悩む生徒も当然いるだろうから、必要な生徒がLGBTの情報にアクセスできるようにすることも大事だ。うちの学校図書館では、3年前に司書さんが着任してわりとすぐにLGBTに関する本を複数冊入れていて、さすがプロフェッショナルは違うといたく感心した記憶がある。もちろんそれが実際に切実感を持って読まれるかどうかわからないけど、情報が手の届くところにあるのはとても大事だ。

学校にいるLGBTの生徒たちが、少しでも居心地悪くならないように。教員として抱くそういう感覚と、一方で差別を差別として糾弾しきれない別の感覚が、僕の中で不思議な同居を続けている。

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