司書と教員の同僚性について

あるところで、「学校の司書は教員とどこまで同僚性を持てるのか? ハーフ?」という問いを見た。これって結局は「その人次第、現場次第」で一般解というものはないだろうから、あくまで自分の居場所についての自分の考えに限定して書いてみたいと思う。

そもそもこういう問いが出てくる背景には、「司書が同僚として認められていない」現実や、それに対する司書の不満が多分にあるのだろう。学校司書は、6月の学校図書館法改正でようやくその存在が公式に認められたばかりで、待遇も劣悪だ(「司書 求人」で検索するとわかる)。「教員」ではないことを理由に職員会議に出られない司書も多いなど、その活動にも様々な制約が課されている。充分なサポートを得られず「一人職場」の苦しさを抱えている人もいる。また、残念ながら、司書の専門性は素人には見えにくい。下手すると「本の貸出返却作業や図書室の掃除をする人」程度の認識の教員だっているのだ。

だから、話の前提として、司書が置かれているこういう悪条件については、司書教諭や管理職が中心になって、一つ一つ改善していく必要がある。一足飛びに「専門・専任・正規」とまでは行かなくとも、学校司書の専門性を教員集団に認知してもらい、職員会議に出て学校の情報を共有できるようにし、専門性を磨く機会を保証し、安心して継続して働いてもらう環境を整えることが大事だろう。もちろん予算の問題が出てくるのでシビアなやりとりも必要になるけれども、学校図書館は育てるのに時間がかかるので、こうすることが結局は学校図書館を良くしていくことにつながる。ここは司書教諭の頑張りどころ。

それで、その上での話だけれども、教員同士が持つような意味での同僚性を、司書と教員が持つことは、やはりないだろうと思う。学校の持つ「教育」の論理と、図書館の論理は突き詰めるとどうしても対立する部分があって、司書は教員に対する「他者」にならざるを得ないからだ。例えば、子どもの貸出履歴の開示を教員が司書に求めるケースなどで両者の論理の違いは先鋭化する。そういう時に司書は「図書館の自由」に基づいて「教育」の論理から子どもを(というよりも「一人の人間」を)守る役割も持っている。

図書館といっても「学校図書館」なのだから、学校図書館法第二条に基づいて「教育活動の展開に寄与する」ことを優先すべき、という考え方も当然ある。「図書館の自由」は学校図書館では大幅に制限されて当然という考え方もある。それもわかる。そういう現場も多いだろうし、その現場の事情を知らない僕がそれを批判するつもりもない。

だからこのへんは結局は好みの問題にもなるかもしれないし、現実的には各々の現場でバランスをとりましょうという話になるのかもしれないけれど、それでも、僕が考える「司書が学校にいること」の最大のメリットは、「教育」の論理とは異なる論理の人が教育現場にいることだ。僕達教員は、意識しようとしまいと、生徒を「評価」したり「指導」したりする権限を持っていて、時にその権力性をあらわにする。こういう環境で生活する子どもたちにとって、教育の論理を相対化する人の存在は極めて貴重だ。簡単に言えば、教師の目が届く普通教室だとくつろいで過ごせない生徒が、学校図書館だと安心して油断できる。学校図書館は、教員からも生徒からも等距離にあるそんな場所として機能すべきだし、司書は図書館をそのようにデザインする人だと思う。

そんな司書の役割を考えた時に、司書が教員と持つ同僚性は、教員同士の同僚性とは異なり、「異質な他者同士が結ぶ同僚性」にならざるをえない。司書は教員とは違う。司書もそのことをポジティブにとらえていいし、教員や学校もまた、司書をそういう存在として扱っていいと思う。そして、そのことと、司書をスタッフの一人として尊重することは、全く矛盾しない。さらに言えば、司書が安心して学校内の他者でいられる、そういう環境を作るのが、司書教諭や管理職の仕事なのではないかな。

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